石川総共
日本の江戸時代中期~後期の武士。江戸幕府旗本石川総比次男で、同格石川総朗養子。総氏流石川家(保久石川家)4代当主。火事場見廻役・御使番を勤めた
石川 総共(いしかわ ふさとも)は、江戸時代中期の旗本。総氏系石川家(保久石川家)4代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保3年(1718年) |
死没 | 安永4年9月11日(1775年10月5日) |
別名 | 亀之助、監物、総寛 |
戒名 | 長壽院殿證體日用 |
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川吉宗 |
氏族 | 石川氏(本姓:清和源氏) |
父母 |
父:大久保総比、母:某氏 養父:石川総朗 |
兄弟 |
総比の子:総朋、阿てる(石河政武室)、某、総共 総候(常陸下館藩主石川総陽養子) 阿ふう(今大路道三室)、総胤、銀七郎 娘(神尾元経室)、細井勝名(細井勝尚養子) |
妻 | 正室:林信充の娘、後室:室賀正晋の娘 |
子 |
某、総詳、阿ふみ(堀知秀室) 阿喜代(津田信之室)、阿政、宗兵衛 官八郎、大助、阿みち(谷口正成室) |
生涯
編集享保3年(1718年)旗本大久保総比の次男として誕生し、伯父にあたる石川総朗の養子となる。享保17年閏5月2日(1732年6月23日)養父総朗の死去により保久石川家の家督を継ぎ、同年12月6日(1733年1月21日)将軍徳川吉宗に拝謁した。その後火事場見廻役、御使番を務め延享元年12月(1745年1月)布衣着用を許され、延享2年8月9日(1745年9月4日)病により致仕した。
家臣のはからいにより中小姓以下の従者に暇を出したことに対して、宗家(伊勢亀山藩主の家)より遣わされた従者を家臣任せに暇を出したことを問われ、宝暦11年11月18日(1761年12月13日)逼塞を命じられ、翌年2月7日(1762年3月2日)赦された。安永4年9月11日(1775年10月5日)築地萬年橋の屋敷にて死去した。
参考文献
編集- 『新訂 寛政重修諸家譜 第3』続群書類従完成会、1981年
- 『石川家譜難波録』