石岡大火

1929年に茨城県石岡町で発生した火災

石岡大火(いしおかたいか)は、1929年(昭和4年)3月14日茨城県新治郡石岡町(現在の同県石岡市)で発生した火災。石岡町の中心市街地の4分の1を焼失する大きな災害であった[1]

石岡大火

「火事の多い町」と呼ばれた石岡[2][3]においても、最も焼失面積および焼失規模の大きい災害であり、関東大震災における石岡町の被害を大きく上回ることとなった[4]

概要

編集

石岡市は古くから開けた地域であり、奈良時代には常陸国国府が置かれ、江戸時代には水戸徳川家から分家した松平氏常陸府中藩藩主として府中[注 1]に入封し、その城下町として栄えた[5]。長い歴史を有する石岡では、古くは天慶2年(939年)に平将門が約300戸を焼き払ったという記述が『将門記』にあり、天正18年(1590年)には大掾氏滅亡に際して居城のあった府中が兵火に遭っている[2]近世にも4度の大火をくぐり抜け、明治時代に6度、大正時代に1度の大規模火災が発生している[6]。こうした経験から1878年(明治11年)には16組1,200人の「火消組」が組織され、後に「消防組」に改称、消火用のタンク火の見櫓の設置やポンプの購入などにより火事に備えてきた[7]。しかしながら1929年(昭和4年)3月14日の石岡大火では、石岡町の消防組では手に負えないほどの大規模火災となり、近隣町村の消防組やからの協力を得て、ようやく翌日の鎮火を見たのであった[8]

火災の発生

編集
 
石岡大火後の中町

石岡大火の発生する1929年(昭和4年)3月14日は朝から北西があり、にはその強さを増し、砂塵を巻き上げて日光を遮るほどであった[9]。こうした状況で午後7時30分頃、中町[注 2]にて火の手が挙がり、風速15mの風に煽(あお)られて東に隣接する金丸町[注 3]へと拡大し、石岡劇場などを焼いた[9]。火災発生から20分もたたないうちに金丸町から富田町[注 4]一帯が火に包まれ、「石岡町市街の防火壁」とも呼ばれた石岡の老舗・高喜呉服店の石塀をはじめとして、多くの土蔵が火に飲み込まれた[9]。西に隣接する木之地町[注 5]へ飛んだ火は、石油倉庫に引火して大爆発を起こし、火勢を増して南隣の守木町[注 6]を襲い、金毘羅神社を焼失させ、富田町で東からの火と合流した[1]。その炎の凄まじさは、昼間よりも明るいほどであったと伝えられ、火の粉が降り注ぐ中を人々は逃げ惑い、方々で「早く逃げろ」などの怒号が飛び交ったという[11]。他に石岡郵便局常磐銀行支店、活動常設館国文館、村山裁縫学校なども焼失した[12]

火は富田町から南東方向へ進み、貝地町[注 7]に向かった[1]。急報を聞きつけた近隣町村の消防組に加え、水戸市土浦町(現在の土浦市)からも応援が駆け付けたものの鎮火せず、水戸工兵第十四大隊や霞ヶ浦航空隊の出動要請を行って[13]、5時間におよぶ破壊消防の結果、これ以上の火の手の拡大は防がれ、ようやく翌3月15日午前2時頃[注 8]に火は収まった[1]。焼け跡の空には白煙が立ち上っていた[14]

自らも石岡大火の被災者である今泉哲太郎は、火災の翌日に一面焼け野原となった石岡の町を巡り、その惨状を記している[15]。今泉によれば、頼るべき親戚や知人の家もすべて焼かれて行き場を失った人々が野山や田畑に逃げ込み、安全が伝えられた清凉寺には本堂や墓地、果ては茶畑竹林に至るまで、避難した人々や彼らが運び入れた壊れた家財道具で埋め尽くされ、歩く場所さえないほどだったという[14]

大火からの復興

編集
 
復興した中町商店街(1935年
 
大火後に建設された看板建築
 
丁子屋

大火により、守横町[注 9]130戸、中町126戸など計606戸1,700棟[注 10]が焼失、被害総額は2,000万円以上に達した[17]。実に石岡町民の5分の1以上が被災したことになる[14]。これを受け、皇室より御内帑金(ごないどきん)[注 11]が下賜された[13]。その後、今泉哲太郎と今泉義文の兄弟によって石岡大火を綴った『あゝ石岡大火災』がまとめられた[9]

町の景観は、石岡大火によって一変した[16]。中町商店街では道路の拡幅と歩道の整備が行われ、ポプラ街路樹が植えられ、ガス灯も設置された[16]。中町の土蔵は焼け残ったものの、焼失した多くの建物は2階建の洋風建築木造モルタル建築へと建て替えられた[16]。なお石岡大火では丁子屋[注 12]が唯一、焼失を免れた商家建築として現存し、国の登録有形文化財となっている[18]

また駅前通り(八間道路、現在の茨城県道277号石岡停車場線)が新たに整備され、1929年(昭和4年)10月21日に大火からの復興を兼ねて盛大な開通式が行われた[20]。同年の11月15日には茨城県内で大日本帝国陸軍の特別大演習が行われ[21]、八間道路の聖駕通御(せいがつうぎょ)[注 13]を記念して、「御幸通り」の別名が与えられた[20]。この時、御内帑金への感謝として、『石岡写真帖』が献呈された[13]

中町の北にある香丸町[注 14]は大火に巻き込まれなかったため、しばらくの間土蔵が残っていたが、1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)にかけて歩道を確保するためのセットバック工事を機に店舗や住宅の新築が行われ、中町とは異なる景観を呈するようになった[16]

脚注

編集
注釈
  1. ^ 石岡の古称。常陸府中、常府、府中平村とも呼ばれたが、明治時代に「石岡」へ改称した。
  2. ^ 現在の国府三丁目および総社二丁目[10]
  3. ^ 現在の国府二丁目および三丁目[10]
  4. ^ 現在の国府五丁目および六丁目[10]
  5. ^ 現在の国府三丁目および府中二丁目[10]
  6. ^ 現在の国府三丁目、同六丁目、同七丁目および総社二丁目[10]
  7. ^ 現在の国府五丁目[10]
  8. ^ 『石岡市史 下巻』による記述。『茨城県大百科事典』では午前4時頃の鎮火とされる[13]
  9. ^ 現在の国府一丁目から六丁目[10]
  10. ^ 『石岡市史 下巻』による記述。『茨城県大百科事典』では600戸・約1,800棟に被害[13]、高橋ほかの論文では589戸が全焼[16]、となっている。
  11. ^ 天皇の手持ちの資金のこと。
  12. ^ 丁子屋は、江戸時代末期に建設された建物で、元は染物屋であったが、現在は観光施設「まち蔵藍」として利用されている[18]。石岡大火を耐えたものの、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では被災した[19]
  13. ^ 天皇の乗り物が通ること。
  14. ^ 現在の府中一丁目および二丁目[10]
出典
  1. ^ a b c d 石岡市史編さん委員会 編(1985):1182ページ
  2. ^ a b 石岡市史編さん委員会 編(1985):1015ページ
  3. ^ 高橋ほか(1994):5ページ
  4. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1180 - 1181ページ
  5. ^ 茨城新聞社 編(1981):40ページ
  6. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1015 - 1016ページ
  7. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1016 - 1017ページ
  8. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1181 - 1184ページ
  9. ^ a b c d 石岡市史編さん委員会 編(1985):1181ページ
  10. ^ a b c d e f g h 石岡市史編さん委員会 編(1979):877, 879ページ
  11. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1181 - 1182ページ
  12. ^ 石岡で大火、千二百戸を全焼『東京日日新聞』昭和4年3月15日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p12 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  13. ^ a b c d e 茨城新聞社 編(1981):41ページ
  14. ^ a b c 石岡市史編さん委員会 編(1985):1184ページ
  15. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1181, 1184ページ
  16. ^ a b c d e 高橋ほか(1994):7ページ
  17. ^ 石岡市史編さん委員会 編(1985):1182, 1184ページ
  18. ^ a b 石岡市役所生涯学習課"丁子屋 茨城県石岡市"(2012年3月15日閲覧。)
  19. ^ 茨城新聞社"被災文化財修理 石岡、桜川市が独自補助 県議会、国助成求め意見書"2011年6月21日(2012年3月15日閲覧。)
  20. ^ a b 石岡市史編さん委員会 編(1985):1187ページ
  21. ^ 長谷川ほか(1997):付録18ページ

参考文献

編集
  • 石岡市史編纂委員会 編『石岡市史 上巻』石岡市長 鬼沢賢造 発行、昭和54年2月11日、1065pp.
  • 石岡市史編さん委員会 編『石岡市史 下巻』石岡市長 鈴木堅太郎 発行、昭和60年3月31日、1334pp.
  • 茨城新聞社 編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年10月8日、1099pp.
  • 高橋伸夫・小野寺淳・松村公明・舩杉刀修・芳賀博文(1994)"石岡市中心部における都市空間の特性"地域調査報告(筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ).16:1-23.
  • 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山髙志・佐々木寬二『茨城県の歴史』県史 8、山川出版社、1997年6月5日、340pp. ISBN 4-634-32080-0

関連項目

編集

外部リンク

編集