石城国造(いわきのくにのみやつこ、いわきこくぞう)は、石城国(後の律令国陸奥国南部)を支配した国造である。

概要

編集

祖先

編集
  • 先代旧事本紀』「国造本紀」では、成務朝建許侶命を国造に定めたことに始まるとされる。
  • 『陸奥国風土記』逸文の八槻郷条には国造・磐城彦の名前が見える。

氏族

編集

石城氏(いわきうじ、)。 「国造本紀」には「天津彦根命の後裔の建許侶命が石城国造の祖」、『古事記』神武段には、「神武天皇の子の神八井耳命が意冨臣・道奥石城国造等の祖」と記されている。

本拠

編集

支配領域

編集

国造の支配領域は当時石城国と呼ばれていた地域で、後の陸奥国石城郡現在の福島県浜通りのうち、いわき市北半分から大熊町にかけての地域にあたる。

7世紀中葉には、道奥菊多国造(南隣)や高国造と合併して、多珂国を形成した。石城国造の領土について、北限は、『常陸国風土記』に記されている「陸奥国石城郡の苦麻の村」、即ち明治以後の大熊となっている。

氏神

編集

関連神社

編集
  • 甲塚古墳(かぶとづかこふん)
    大國魂神社の東方200mに所在し、建許侶命を葬ったと伝えられる高さ8m・直径37mの円墳(国の史跡)。

子孫

編集
  • 於保磐城臣山際
    • 神護景雲3年(769年)に磐城郡人・外正六位上であり、同年に丈部氏(無姓)から改姓した。
      • いわき市荒田目遺跡から出土した仁寿3年(853年)の頃のものと考えられる木簡には、大領・於保臣の署名と、於保氏(姓の有無は不明)の人物として五百継子槐本家太青女真名足子於足の名前が見える[1]
  • 於保磐城臣御炊
    • 天応2年(782年)7月26日に外従五位下を授けられた。
  • 磐城臣千□
  • 磐城臣藤成

天長3年(826年)1月23日に外正六位上であった藤成に外従五位下が授けられた。

  • 磐城臣雄公磐城臣貞道磐城臣弟成磐城臣秋生

脚注

編集
  1. ^ a b 平川南「里刀自小論 : いわき市荒田目条里遺跡第二号木簡から」『国立歴史民俗博物館研究報告』第66巻、国立歴史民俗博物館、1996年2月、5-24頁、CRID 1390853649019549184doi:10.15024/00000757ISSN 0286-7400NAID 120005748034 

関連項目

編集