矢野 国村(やの くにむら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将三好氏の家臣。阿波国矢野城主。一次史料で確認できる房村[2]

 
矢野国村
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正7年12月27日1580年1月13日
官位 駿河守
主君 三好実休長治十河存保
氏族 矢野氏
父母 父:矢野虎村[1]
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生涯

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阿波において三好実休に仕え、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦いで実休が戦死すると実休の子・長治に仕えた。元亀2年(1571年)、三好長治とその重臣・篠原長房の命により寒川元隣が治める讃岐国大内郡のうち4郷が三好氏に割譲されると、そのうち引田城に国村が虎丸城には安富盛定が入城した。

天正5年(1577年)3月、阿波勝瑞城の三好長治が阿波守護細川真之伊沢頼俊一宮成相に討たれると阿波に戻り、篠原自遁と共に伊沢頼俊を謀殺して勝瑞城を奪還し、細川真之・一宮成相と対峙した[3]。天正6年(1578年)1月、国村は勝瑞城に十河存保を迎え入れ三好家当主に仰いだ[4]

天正7年(1579年)12月、三好康長の嫡男で岩倉城主・三好康俊脇城主・武田信顕が、土佐の長宗我部元親に通じた。三好康俊は三好家の武将に土佐へ攻め入るため軍勢を率いて参陣するよう要請した。三好越後守、森飛騨守、河村左馬亮と共に国村もこれに応じたが、脇城外で三好康俊と武田信顕の兵から銃撃を浴びせられ戦死した[5]

脚注

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  1. ^ 小杉榲邨 編「矢野氏覚書」『阿波国徴古雑抄』日本歴史地理学会、1913年、777頁。全国書誌番号:43017505https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949391/425 
  2. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂掛 編「矢野房村書状案」『大日本古文書 家わけ九ノ二』東京帝国大学、1926年、470–471頁。全国書誌番号:73018526https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915650/283 
  3. ^ 『南海通記』11巻
  4. ^ 『南海通記』13巻
  5. ^ 『南海通記』14巻

出典

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