白勢量作
白勢 量作(しろせ りょうさく、1883年(明治16年)12月[1] - 1944年(昭和19年)10月3日[2])は、日本の実業家。第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取[1]。新潟商工会議所会頭[3][4][5]。白勢合名代表[6]。満州帝国名誉領事[3][5][6]。
人物
編集新潟県の素封家・白勢春三の長男[7]、白勢二朔の養甥である[3][5]。新潟市の自邸に生まれ、県立中学、高等学校を経て[7]、1909年、東京帝国大学法科大学政治学科卒業[4][5]。 1928年(昭和3年)に発足した東信電気と東京電燈による共同出資会社昭和肥料の取締役に就任[8]。 1936年(昭和11年)、新潟電力社長に就任[6]。1938年、新潟駐在満州帝国領事を嘱託された[3][5]。
第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取、新潟電力、新潟電鉄、東北配電、二葉社各社長[1]、会津電力、昭和肥料、北越パルプ、日本火災海上保険、佐渡汽船、東亜電力興業各取締役[1][3][4][6]、新潟鐵工所、帝国火災保険、北越製紙各監査役[1]、庄内電気鉄道相談役などをつとめた[1][3][5]。1944年(昭和19年)10月3日、新潟市の自邸にて死去[2]。
著作
編集- 『満州と新潟』満州帝国駐新潟名誉領事館、1938年
栄典
編集家族・親族
編集- 白勢家
- 父・春三(1863年 - 1941年、新潟商工会議所顧問、新潟県多額納税者、第四銀行、新潟貯蓄銀行各頭取、白勢合名代表社員、衆議院議員、貴族院議員)[5]
- 妹・ツウ(1891年 - ?、新潟、池田文蔵の妻)[5]
- 妻・トヨ子(1890年 - ?、新潟、石黒忠三郎の孫)[5]
- 男・誠一[5](1913年 - 1982年、白勢商事社長)
- 二男(1916年 - ?)[4]
- 長女・フミ(1911年 - ?、千葉、小幡治和の妻)[3]
- 二女[4]
- 三女[4]
- 四女[4]
- 五女[4]
- 親戚
脚注
編集- ^ a b c d e f 『人事興信録 第14版 上』シ111頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月5日閲覧。
- ^ a b 『朝日新聞』昭和19年10月4日朝刊、第3面の訃報より
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第13版 上』シ115頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『帝国大学出身名鑑』シ67頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第12版 上』シ122頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月5日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』新潟23頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月7日閲覧。
- ^ a b c d 『越・佐傑人譜 昭和14年度版』し15頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月5日閲覧。
- ^ 会長に若尾璋八、創立総会開く『大阪毎日新聞』(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p318 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『朝日新聞』昭和19年10月14日朝刊、第3面「堀、白勢、中川三氏の余栄」
- ^ 『人事興信録 第9版』イ128頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年1月6日閲覧。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 日本風土民族協会編『越・佐傑人譜 昭和14年度版』日本風土民族協会、1938年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年。