田中健五
田中 健五(たなか けんご、1928年(昭和3年)6月4日 - 2022年(令和4年)5月7日)は、日本のジャーナリスト、編集者、実業家。『諸君!』、『文藝春秋』、『週刊文春』編集長を経て、文藝春秋社長(第7代)。
たなか けんご 田中 健五 | |
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生誕 |
1928年6月4日 広島県広島市 |
死没 | 2022年5月7日(93歳没) |
死因 | 肺炎 |
出身校 | 東京大学文学部独文科 |
職業 | ジャーナリスト、編集者、実業家 |
人物・来歴
編集広島県広島市出身。海軍兵学校教授であり、高松宮宣仁親王に英語を指導したことでも知られる田中酉熊の五男として生まれる。都立一中から1945年(昭和20年)4月、海軍兵学校に第77期生として入学するも敗戦により退校、旧制東京高校を経て、53年東京大学文学部独文科卒業。
就職難の時代、たまたま文藝春秋新社(現文藝春秋)の試験を受け入社。創業者菊池寛の没後に入社したため、「菊池寛を知らない初めての社長」と後年業界で話題となる。『文学界』編集部時代には、当時の新人作家・石原慎太郎、江藤淳らと付き合い人脈を形成した。その後『大世界史』の通史を任され、林健太郎ら学者との出会いも大きな財産となった。
諸君!初代編集長に抜擢
編集出版部次長を担った後、当時社長だった池島信平により、1969年(昭和44年)夏、オピニオン誌『諸君!』が創刊されると初代編集長に抜擢され、本田靖春、柳田邦男、岩川隆らのライターを育てた。また三島由紀夫による三島事件の翌年、父・平岡梓に回想記を書かせた。
文藝春秋編集長時代
編集1972年(昭和47年)『文藝春秋』編集長に就任する。学歴のない50歳半ばの若き政治家・田中角栄が何故総理大臣までなりえたか、の好奇心から立花隆と児玉隆也を起用し、74年11月特別号で時の首相・田中角栄の特集「田中角栄研究-その金脈と人脈」「淋しき越山会の女王」の二本立60頁に及ぶ特集を掲載。大きな反響を呼び起こした。田中首相が外国人記者の質問に答え「記事は事実無根」と発言したのを機に、静観していた新聞も田中金脈問題などの見出しで大々的な報道を行い田中内閣を退陣へと追い込んだ。
週刊文春編集長時代
編集1977年(昭和52年)『週刊文春』編集長に就き、クレディビリティの高い、読み応えある雑誌への刷新を宣言。現在も続く和田誠のイラストに表紙に変え、女性読者も想定した誌面構成に変更し、上之郷利昭、上前淳一郎、田原総一朗ら、当時はまだ有名でなかった若手ライターを起用した[1]。しかし、翌78年11月、編集長を辞任した。原因として、10月12日号の記事『大平・中曽根のスキャンダル合戦』を巡る政界圧力説、東京相互銀行からの田中への裏融資説などが噂されたが、実際は文藝春秋の表紙画を描いていた杉山寧を揶揄するような記事が[2]、杉山の逆鱗に触れたため。杉山の娘は三島由紀夫夫人・平岡瑤子で、以前田中が三島の父・平岡梓に原稿を書かせた時から確執があった[3]。
取締役選任
編集1979年(昭和54年)第二編集局長、82年取締役に選任。86年には安部譲二を世に出した。安部は田中がいなければ作家になっていなかったと述べている[4]。
社長就任
編集1988年(昭和63年)第7代社長に就任。91年に創刊した月刊誌『マルコポーロ』の部数低迷から、花田紀凱を編集長に起用した95年2月号で、ホロコーストは捏造という記事を掲載。アメリカのユダヤ人団体・サイモン・ウィーゼンタール・センターや駐日イスラエル大使館など世界中から強い非難を浴び、同誌の廃刊と2月号の回収、花田の解任の決定と責任を取って自らも退任し会長となった。
1997年(平成9年)取締役最高顧問となり、99年に退く。このほか、日本雑誌協会、日本文学振興会などの理事長、活字文化推進会議特別顧問、日本図書普及の社長なども務めた。
脚注
編集- ^ 『週刊文春』2009年4月2日号、122-123頁
- ^ 〈告発の書『日本美術界腐敗の構造』に怯える代議士から美術記者まで〉1978年10月26日号
- ^ 『サンデー毎日』1978年11月26日号、21-23頁
- ^ 安部譲二 1999, p. 225.
- ^ “元文芸春秋会長の田中健五さん死去 93歳 「諸君」編集長など歴任”. 毎日新聞社. (2022年5月16日) 2022年5月16日閲覧。
- ^ “田中健五氏が死去 元文芸春秋社長”. 日本経済新聞. (2022年5月16日) 2022年8月6日閲覧。
参考文献
編集- 安部譲二『ガツン!』主婦の友社、1999年6月。ISBN 978-4072252598。
関連項目
編集外部リンク
編集- 生きて 元文芸春秋社長 田中健五さん - ウェイバックマシン(2011年5月29日アーカイブ分)