武田信在
室町時代前期の守護大名
武田 信在(たけだ のぶあり)は、室町時代前期の安芸分郡守護。安芸武田氏の第2代当主。
時代 | 室町時代前期 |
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生誕 | 観応3年/正平7年(1352年)[1] |
死没 | 応永10年(1403年)? |
戒名 | 晃化寺殿乗光見外大居士[2][3] |
官位 | 従四位下、伊豆守[3]、安芸守、治部少輔[1][3] |
幕府 | 室町幕府安芸佐東郡守護 |
氏族 | 安芸武田氏 |
父母 | 父:武田氏信[3]、母:小笠原宗長の娘 |
子 | 信守[3][注釈 1]、信繁 |
生涯
編集父は先代の安芸分郡守護の武田氏信[4](安芸守護だった時期もあり)。母は信濃守護の小笠原宗長の娘[4]。氏信が天授5年/康暦元年(1379年)に隠居したため、佐東郡の守護職を相続した[4]。
元中9年/明徳3年(1392年)8月28日に足利義満が相国寺供養を執行した際に先陣を務めて供奉した[5]。
信在は氏信の代で零落した自家を再興するため、水軍を補強しようとした[6]。そして佐西郡の厳島神主領を奪い取った[6]のが応永4年(1397年)頃とされる。この事件に大内義弘が吉川氏や熊谷氏に懐柔することで対立し、後に武田家と大内家が抗争する下地となった[6]。
応永の乱で大内義弘が敗死[1]。その後、足利義満により安芸における大内軍追討が行なわれるが、この動きに所領を没収されることを恐れた安芸の国人33人が応永11年(1404年)9月23日に5か条の一揆契約(安芸国人一揆)を結ぶが、この際に活動しているのは信在では無く跡継ぎの信守のため、応永10年(1403年)頃に死去したとされている[1][注釈 2]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ISBN 4404012403。
- 高野賢彦『安芸・若狭武田一族』新人物往来社、2006年11月。ISBN 4404034202。
外部リンク
編集- 歴史情報 - 祇園西公民館Web情報ステーション(広島市未来都市創造財団ひと・まちネットワーク部)