牧野寛索

日本の政治家、弁護士 (1902-1963)

牧野 寛索(まきの かんさく、1902年1月6日[1] - 1963年9月22日)は、日本の政治家衆議院議員(4期)。弁護士

経歴

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山形県西村山郡溝延村(現:河北町)出身[1]。村山農学校を経て、上京し、中央大学に入る[1]。在学中に高等試験司法科試験に合格し[1]1931年同大学を卒業する[1][2]。卒業後は弁護士として活動し、中央大学講師となる[2]

1942年翼賛選挙では郷里の山形1区(当時)から非推薦で立候補したが落選した[3]

戦後の1946年第22回衆議院議員総選挙で山形県(全県1区)から日本自由党公認で出馬して初当選。翌1947年第23回衆議院議員総選挙山形1区から立候補したが落選。1949年第24回衆議院議員総選挙では民主自由党公認で立候補して再選。この間吉田茂のもとで内閣総理大臣秘書官を二度務めた[2][4]第3次吉田内閣で法務政務次官に就任。1952年第25回衆議院議員総選挙で落選。翌1953年第26回衆議院議員総選挙で復帰。1955年第27回衆議院議員総選挙で落選、1958年第26回衆議院議員総選挙でも落選、1960年第28回衆議院議員総選挙で復帰。在職中の1963年9月22日に死去した。

この他、衆議院両院法規委員長[2]、裁判官訴追委員長[2][4]、自由党幹事を歴任した[4]

編著

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脚注

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  1. ^ a b c d e 河北町HP 『河北の偉人』
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』584頁。
  3. ^ 『朝日新聞』1942年5月3日三面。
  4. ^ a b c 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』562頁。

参考文献

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