牛田村
牛田村(うしたむら)は、かつて広島県安芸郡に存在した村である。明治22年(1889年)の町村制発足により設置され、昭和4年(1929年)4月1日、広島市に編入合併して消滅した。
うしたむら 牛田村 | |
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廃止日 | 1929年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 三篠町、己斐町、草津町、古田村、牛田村、矢賀村、仁保村 → 広島市 |
現在の自治体 | 広島市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 広島県 |
郡 | 安芸郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 12.184 km2. |
総人口 |
2,821人 (1925年) |
隣接自治体 | 戸坂村・中山村・広島市・三篠町・長束村・原村 |
牛田村役場 | |
所在地 | 広島県安芸郡牛田村(現・牛田本町5丁目) |
座標 | 北緯34度25分00秒 東経132度28分01秒 / 北緯34.41675度 東経132.46694度座標: 北緯34度25分00秒 東経132度28分01秒 / 北緯34.41675度 東経132.46694度 |
ウィキプロジェクト |
画像外部リンク | |
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広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。 | |
[絵葉書](広島市外牛田村中島牧場ノ遠景) 戦前の牛田村。 |
地理
編集歴史
編集地名の由来
編集地名の由来は、古来この地が公卿大人の所領地で「大人田」(うした)と呼ばれたことにちなむとの説(芸藩通志)、斥鹵(せきろ / アルカリ土壌の荒れ地)が開拓されたことから「潮田」(うしおだ)と呼ばれたとの説、あるいは牛牧の地などの説がある。
古代・中世
編集牛田の名は古く奈良時代の史料に登場し、その当時は「牛田荘」と称し西大寺の荘園であった。中世・室町時代の牛田は安芸国守護家の武田氏支配下にあり、天文10年(1541年)武田氏滅亡後には大内氏、ついで毛利氏の支配に移行した。毛利氏の支配下で、牛田は太田川河口という当時の地理的位置から水軍の拠点となり、宍戸氏など水軍勢力の諸氏族の所領地となった。また16世紀後半に安国寺恵瓊により再建された「安芸国安国寺」(現不動院)は、遅くとも平安時代までにはこの地に建立されていたといわれる。
近世
編集近世の牛田はしばしば太田川の氾濫による冠水に悩み、また近隣の山が留山であったことから肥草が利用できず、農業はふるわなかった。その代わり広島城下に隣接していたため、村民の3割程度が農閑期に城下への出稼ぎ・奉公に従事していたとする史料もある。寛文4年(1664年)に牛田村から京橋川に架けられた神田橋は、広島城下では唯一街道筋(西国街道・雲石街道)以外に架橋されたものであった。
近代
編集近代になり牛田村は明治15年(1882年)北隣の新山村(にいやまむら / 現在の牛田新町三・四丁目)を合併して村域を拡大、明治22年(1889年)には町村制発足により安芸郡牛田村が設置された。同年、対岸の白島町北端に駐屯する陸軍工兵第5連隊が、村内の作業所との連絡のため市内唯一の吊り橋である工兵橋を本川と京橋川が分岐する付近に架橋した。明治29年(1896年)には工兵隊作業場北側の牛田水源地と、これに発する広島市上水道が、宇品への軍用水道から建設が開始され、明治32年(1899年)には市民用の接続水道とあわせ給水を開始した。大正期に入ると村内の宅地化が進行して村民の多くは広島市内に勤務する給料生活者となり、農家の戸数は減少した。このため牛田村は広島市の郊外住宅地としての性格が強くなり、昭和4年(1929年)の広島市編入に至る。
沿革
編集大字
編集近世以来の「牛田村」がそのまま町村制による牛田村に移行したため、大字は編成されなかった。なお、牛田新町四丁目に存在するバス停「天水」(あまず)は、牛田村合併前の新山村以来の地名である。
各種施設・企業(1929年4月時点)
編集- 行政機関
- 牛田村役場 : 現在の牛田本町5丁目付近に所在していた。
- 軍施設
- 陸軍工兵第5連隊作業所 : 工兵第5連隊は京橋川対岸の現・安田女子中学校・高等学校の校地付近に駐屯、水源地南側(現在の国家公務員アパート付近)に作業所を設置していた。
- 公共施設
- 学校
- 金融機関
合併後の状況
編集出身人物
編集官僚
編集関連書籍
編集- 『広島県の地名』(日本歴史地名大系 第35巻) 平凡社、1982年
- 『角川日本地名大辞典 第34巻 : 広島県』 角川書店、1987年 ISBN 4040013409