火葦北阿利斯登

古墳時代の豪族

火葦北阿利斯登(ひ の あしきた の ありしと、生没年不詳)は、古墳時代6世紀)の豪族刑部靫部阿利斯登(おさかべ の ゆげい ありしと)ともいう。

 
火葦北阿利斯登
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
別名 刑部靫部阿利斯登
官位 火葦北国造刑部靫負
主君 宣化天皇
氏族 葦北君
日羅
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概要

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  1. 肥後国の葦北(現在の熊本県葦北郡および八代市)の国造であった有力な首長であり(『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、景行天皇の時代に、吉備津彦の子の三井根子命が、国造になった、とある)、
  2. 刑部允恭天皇の皇后、忍坂大中姫にちなむ名代)の管理者であり、
  3. 靫負部(ゆげいべ)として、中央に出仕し、朝廷の親衛軍として宮廷の警備にあたる役目を負った

一族の一員であった。息子の日羅が来朝した際に、大伴金村のことを「我が君」と呼んでいるのは、靫負部を配下においた大伴氏との主従関係によるものである。

火葦北国造の「君」である大伴氏による半島活動は、倭王権の指示によるものであった。ただし、そのために大伴氏が動員する人士は、大伴氏との関係が一次的であり、倭王権との関係は二次的である。阿利斯登からすれば半島での活動は大伴氏との関係を前提とするものであり、そこに王権の規制は働きにくかった[1]

なお、「阿利斯登」という名は、『日本書紀』巻第六の垂仁天皇2年の一書に登場する都怒我阿羅斯等[2]、同巻第十七の継体天皇23年・24年に登場する加羅王阿利斯等[3][4]などのように、個人名ではなく、アリ(=大)、シチ(=首長)であり、アリシトとは大首長の意であることから、火葦北国造は半島との交流の中において阿利斯登を名乗っていたことになり、その活動は大伴氏の動員による一時的なものではなく、日常的に半島と密接な関与があったことを推察できる。これによって、火葦北国造の半島における活動が、王権や大伴氏の指示のもとに行なわれたのではなく、逆に火葦北国造の活動を前提として王権や大伴氏の半島での外交行動が成り立っていた可能性も考えられる[1]

記録

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『書紀』巻第二十の記録によると、宣化天皇の代に大伴金村の指示で、「海表」(わたのほか=海外)に渡海した、すなわち朝鮮半島への遠征軍に加わったとあるだけである[5]。巻第十八によると該当する記事が、宣化天皇2年10月(537年)に、

天皇(すめらみこと)新羅任那に寇(あたな)ふを以て、大伴金村(おほとも の かなむら)大連(おほむらじ)に詔して、其の子(いは)狭手彦(さでひこ)とを遣して、任那を助けしむ。是の時に、磐、筑紫に留(とどま)りて、其の国の政(まつりごと)を執(と)りて、三韓(みつのからくに)に備ふ。狭手彦、往きて任那を鎮(しづ)め、加(また)百済を救ふ[6]

と記載されている。

敏達天皇12年(583年)、天皇はその息子、日羅を百済から召喚しようと試みた[7]。日羅が百済人の使節に殺された際には、葦北君の一族によって、父の阿利斯登の故地である葦北の地に改葬されたという。この日羅が百済の「達率」であったように、筑紫君磐井が新羅と組み反乱を起こしたことも考え合わせて、6世紀の段階では北部九州の豪族の中には大和王権の支配が及んでいなかったと見る向きもある[8]

脚注

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  1. ^ a b 河内春人古代東アジアにおける政治的流動性と人流』 3巻、専修大学社会知性開発研究センター〈専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報〉、2017年3月、108頁。doi:10.34360/00008258https://doi.org/10.34360/00008258 
  2. ^ 『日本書紀』垂仁天皇二年是歳条
  3. ^ 『日本書紀』継体天皇二十三年三月是月条
  4. ^ 『日本書紀』継体天皇二十四年九月条
  5. ^ 『日本書紀』敏達天皇十二年是歳条
  6. ^ 『日本書紀』宣化天皇二年十月一日条
  7. ^ 『日本書紀』敏達天皇十二年七月一日条
  8. ^ 古代人物総覧新人物往来社別冊歴史読本〉、1996年、209頁。ISBN 9784404024411NCID BA36828908https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I052626127-00 

参考文献

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関連項目

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