瀛洲(えいしゅう)は、

  1. 古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬萊方丈)の一つ[1]
  2. 転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[2]。日本の雅称である[3]

瀛州(えいしゅう)は、

  1. 中国にかつて存在した南北朝時代から北宋にかけて、現在の河北省滄州市西部に設置された(後述)。

魏晋南北朝時代

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487年太和11年)、北魏により定州河間郡高陽郡および冀州章武郡が分割され、瀛州が置かれた。その州治は趙都軍城に置かれた[4]

隋代

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初には瀛州は下部に4郡11県を管轄した。583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、瀛州の属郡は廃止された。596年(開皇16年)に蒲州および景州が分割設置されたが、605年大業元年)にそれぞれ廃止され、その管轄区域は瀛州に統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、瀛州は河間郡と改称され、下部に13県を管轄した[5]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
瀛州 定州 河間郡
河間郡 高陽郡 章武郡 漳河郡 博陵郡 河間県 楽寿県 鄚県
高陽県 博野県 清苑県
平舒県 景城県 文安県
長蘆県 饒陽県 束城県
魯城県
武垣県 楽城県
鄚県 任丘県
高陽県 博野県
永寧県
平舒県 成平県
文安県
長蘆県 饒陽県

唐代以降

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621年武徳4年)、竇建徳を滅ぼすと、河間郡は瀛州と改められた。742年天宝元年)、瀛州は河間郡と改称された。758年乾元元年)、河間郡は瀛州の称にもどされた。瀛州は河北道に属し、河間・高陽・平舒・束城・景城の5県を管轄した[6]

1108年大観2年)、北宋により瀛州は河間府・瀛海軍節度に昇格した[7]

脚注

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  1. ^ コトバンクデジタル大辞泉
  2. ^ a b 宮崎正勝「海からの世界史」角川選書、68頁
  3. ^ 中国語版参照2011年6月5日閲覧
  4. ^ 魏書』地形志二上
  5. ^ 隋書』地理志中
  6. ^ 旧唐書』地理志二
  7. ^ 宋史』徽宗紀二