河間府(かかんふ)は、中国にかつて存在した宋代から民国初年にかけて、現在の河北省滄州市西部に設置された。

直隷省の河間府の位置(1820年)

概要

編集

1108年大観2年)、北宋により瀛州が河間府に昇格した。河間府は河北東路に属し、河間楽寿束城の3県を管轄した[1]

のとき、河間府は河北東路に属し、河間・粛寧の2県を管轄した[2]

1265年至元2年)、モンゴル帝国により河間府は河間路総管府と改められた。のとき、河間路は中書省に属し、録事司と河間・粛寧・斉東寧津臨邑青城の6県と滄州に属する清池楽陵南皮無棣塩山の5県と清州に属する会川靖海興済の3県と献州に属する楽寿・交河の2県と莫州に属する莫亭任丘の2県と陵州の合わせて1司6県6州州領17県を管轄した[3]

1368年洪武元年)、により河間路は河間府と改められた。河間府は北直隷に属し、河間・阜城・粛寧・任丘・交河・・興済・静海寧津の10県と景州に属する呉橋東光故城の3県と滄州に属する南皮・塩山・慶雲の3県の合わせて2州16県を管轄した[4]

のとき、河間府は直隷省に属し、河間・献・阜城・粛寧・任丘・交河・寧津・呉橋・東光・故城・景州の1州10県を管轄した[5]

1913年中華民国により河間府は廃止された。

脚注

編集
  1. ^ 宋史』地理志二
  2. ^ 金史』地理志中
  3. ^ 元史』地理志一
  4. ^ 明史』地理志一
  5. ^ 清史稿』地理志一