滝進太郎
滝 進太郎(たき しんたろう、1937年10月19日 - 1998年11月24日)は、日本の実業家、元レーシングドライバー、レーシングチームオーナー。日本のモータースポーツの黎明期、ビジネスとしてプライベートチームを成立させることに挑戦した先駆者と評価されている。
プロフィール
編集デビューまで
編集愛知県名古屋市生まれ。立教大学卒業後はスーパーマーケット経営をしていたが、車に興味を持ち箱根などに走りに行くようになる。日本スポーツカークラブ (SCCJ) でジムカーナなどを体験後、本格的なサーキットレースに参戦する。
サーキットデビュー
編集1964年8月16日にロータス・エラン26で第3回ナショナル・ストックカー・レース(川口市営自動車競技場)でデビュー。1966年の第3回日本グランプリにポルシェ・カレラ6で出場し、プリンス・R380勢を相手に一時トップを走行したが、クラッシュでリタイヤした。
TRO
編集ドライバーとしての活動期間は1968年までと短かったが、1967年秋にプライベートのレーシングチーム「タキ・レーシング・オーガニゼーション」(TRO) を結成。ポルシェやローラの市販スポーツプロトタイプを購入し、日産から田中健二郎や長谷見昌弘をスカウトして、大メーカーのワークスチームと互角に競い合った。
当時の日本グランプリは、トヨタ・日産・タキの頭文字をとって「TNTの戦い」と言われた。1969年日本GPでは西ドイツからポルシェのワークスチームを招聘して話題を集めた。
タキ・レーシングはドライバーやマシンを広告媒体として活用し、ブリヂストン[1]やタミヤなどのスポンサーから活動資金を募った。また、ファンクラブの結成、オフィシャルグッズの販売、ラリーイベント主催などの活動も行い、石原プロモーション製作映画『栄光への5000キロ』の撮影にも協力した。経営者の滝は1969年に『走れ! レースビジネス』(三栄書房刊)という本を出版している。チームは1973年のオイルショック後に活動を停止した。
日本モータースポーツ界への貢献
編集その後、滝はファッション業界で縫製工場経営・ブティック経営などを続ける一方、趣味で香港・北京ラリーなどに出場した。また、日本自動車連盟 (JAF) のスポーツ委員やル・マン24時間レースの審査員を務めるなど、日本国内・国外のレース普及に努めた。1995年にはフォーミュラ・ニッポンの運営母体である日本レースプロモーション (JRP) の代表取締役に就任。日本版ミッレミリアを主宰するヴェテランカークラブ東京の会長も務めた。
1998年11月24日午前10時20分、臓器不全のため逝去、享年61[2]。
プライベート
編集実家は1864年(元治元年)創業の老舗繊維問屋「瀧定」(現:瀧定名古屋)。当主は代々「定助」を襲名する慣わしだったが、滝は大学時代に起業家を志し、6代目「定助」を返上して元の進太郎に戻したといういきさつがある[3]。
ドライバーとしての主なレース成績
編集- 1965年9月 第一回ゴールデンビーチトロフィーGTクラス優勝(ロータス・エラン)
- 1966年1月16日 鈴鹿500kmレースGT-2クラス優勝(ロータス・エラン)
- 1966年5月3日 第3回日本グランプリ自動車レース13位(42周リタイア)(ポルシェカレラ6)
- 1966年11月 マカオグランプリ(ポルシェカレラ6)[4]
- 1967年5月3日 第4回日本グランプリ4位完走(ポルシェカレラ6)
- 1967年10月1日 鈴鹿1000キロ自動車レース 総合優勝(田中健二郎とペア)(ポルシェカレラ6)
- 1967年11月3日 全日本スポーツカーレース富士大会優勝(ポルシェカレラ6)
- 1968年8月4日 第8回全日本ストックカーレース大会2位(ポルシェ・カレラ10)(引退レース)
タキ・レーシング・オーガニゼーションの主なレース成績
編集参考文献
編集- 井出耕也 『むかし、狼が走った サーキットの青春烈伝60's〜70's』 双葉書房、2000年、ISBN 4575290742
脚注
編集- ^ 当時、国内のワークスチームはグッドイヤーやダンロップなどの外国製レーシングタイヤを使用しており、実戦データが欲しいブリヂストンは密かにタキ・レーシングを支援していた。
- ^ "訃報:瀧進太郎氏逝去 ". モータースポーツフォーラム.(1998年11月24日)2013年11月7日閲覧。
- ^ 井出、174頁。
- ^ マカオに参戦した多士済々 Stinger 2023年12月15日閲覧