源英明
平安時代前期から中期の貴族・歌人。斉世親王の長男。従四位上・左近衛中将、蔵人頭、伊予権守。母はあるいは天神御女。子に源堯時(因幡守、従五位上)
源 英明(みなもと の ふさあきら/つねよし)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。宇多天皇の孫。上総太守・斉世親王の長男。官位は従四位上・左近衛中将。
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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死没 | 天慶2年2月25日(939年3月18日) |
官位 | 従四位上・左近衛中将 |
主君 | 醍醐天皇 |
氏族 | 宇多源氏 |
父母 | 父:斉世親王、母:菅原道真三女・寧子 |
兄弟 | 庶明、英明 |
妻 | 藤原道明娘 |
子 | 清時、幹時、忠時、堯時、藤原元名室、藤原助信室 |
経歴
編集昌泰4年(901年)の昌泰の変により、父・斉世親王が舅である菅原道真に連座して出家。それに伴い、幼年時代は不遇であった。
16歳で従四位下に叙せられ、翌年に侍従に任ぜられる。醍醐天皇の信任厚く、延喜23年(923年)右近衛中将、延長5年(927年)蔵人頭と要職を歴任した。延長8年(930年)醍醐天皇から朱雀天皇への譲位に伴って蔵人頭を辞する。承平元年(931年)宇多上皇が崩御すると以降は不遇で[1]、承平4年(934年)左近衛中将に遷るが、結局公卿への昇進は叶わなかった。
天慶元年(938年)7月頃から病となり[2]、翌天慶2年(939年)2月25日卒去[注釈 1][2]。最終官位は左近衛中将従四位上。
人物
編集父の真寂法親王が執筆していた『慈覚大師伝』を遺言として委ねられ、これを完成させた。清書を小野道風に依頼したが、装丁ができないうちに英明自身も没したという[4]。
漢詩に優れ「詩境には無限上手なり」と評された[4]。『扶桑集』『本朝文粋』『類聚句題抄』『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』『作文大體』『和漢兼作集』などに数十首の漢詩作品が採録されている[5]。家集『源氏小草』(全五巻)があったとされるが伝わらない[6]。不遇の詩人橘在列と親交があった。勅撰歌人として、『後撰和歌集』に和歌作品1首が入集している[7]。
官歴
編集系譜
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『玉類抄』引用の『吏部王記』逸文原文は天慶2年の記事とするが、『本朝皇胤紹運録』『尊卑分脈』がいずれも天慶3年没とされてきたため、誤りと考えられてきた(『史料纂集』)。しかし、天慶2年11月3日に異母弟の源庶明が兄の代わりに完成した『慈覚大師伝』を延暦寺に献上した際に出された献納状(現行の写本では奥書として記載)に「英明朝臣去春卒去」と記していること、受け取ったとされる天台座主尊意が天慶3年2月24日に亡くなっており、英明が天慶3年に死没したとすると1日とは言え尊意の方が先に亡くなったことになってしまう。以上の事情から、『本朝皇胤紹運録』『尊卑分脈』の没年に誤りがあり、『吏部王記』の死没記事の天慶2年という年次は正しいことになる[3]。
出典
編集参考文献
編集- 『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137
- 甲田利雄『校本江談抄とその研究下』続群書類従完成会、1988年
- 宮崎康充編『国司補任 第三』続群書類従完成会、1990年
- 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年
古藤真平「斉世親王の出家に関する一考察」本郷真紹(監修)山本崇・毛利憲一(編)『日本古代の国家・王権と宗教』法蔵館、2024年、611-629頁。ISBN 978-4-8318-6281-5。