源興基
平安時代の貴族。人康親王の子
源 興基(みなもと の おきもと)は、平安時代前期の皇族・公卿。仁明天皇の孫で、弾正尹・人康親王の長男。官位は正四位下・参議。もと興基王と名乗るが、臣籍降下して仁明源氏となる。
時代 | 平安時代前期 |
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生誕 | 承和12年(845年) |
死没 | 寛平3年9月10日(891年10月16日) |
改名 | 興基王→源興基 |
官位 | 正四位下、参議 |
主君 | 清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇 |
氏族 | 仁明源氏 |
父母 | 父:人康親王、母:不詳 |
兄弟 | 興基、興範、興扶、藤原基経室、平惟範室 |
妻 | 不詳 |
子 | 忠相、敏相、宜子 |
経歴
編集貞観8年(866年)二世王の蔭位により従四位下に直叙され、翌貞観9年(867年)侍従に任ぜられる。貞観12年(870年)信濃権守、貞観13年(871年)播磨権守と清和朝後半にかけては地方官を務め、この間の貞観16年(874年)には従四位上に昇叙されている。
貞観18年(876年)弾正大弼に転じると、翌貞観19年(877年)左馬頭と陽成朝では京官を務める。元慶4年(880年)2月には源朝臣姓を与えられて臣籍降下しているが、この時は子女の取り扱いに疎漏があり、同年6月に改めて子女3名が臣籍降下している。元慶5年12月(882年1月)左近衛権中将に任ぜられ、元慶6年(882年)蔵人頭を兼ねるなど、陽成朝後半は要職を歴任した。
元慶8年(884年)2月の陽成天皇退位に伴ない蔵人頭を去り、同年11月に正四位下に昇叙。宇多朝の寛平3年(891年)参議兼宮内卿に任ぜられて公卿に列すが、同年9月10日薨去。享年47[1]。最終官位は参議宮内卿正四位下。
官歴
編集- 貞観8年(866年) 正月7日:従四位下(直叙)
- 貞観9年(867年) 正月12日:侍従
- 貞観12年(870年) 正月25日:信濃権守
- 貞観13年(871年) 正月29日:播磨権守[2]
- 貞観16年(874年) 正月7日:従四位上[2]
- 貞観18年(876年) 2月15日:弾正大弼[2]
- 貞観19年(877年) 正月15日:左馬頭[2]
- 元慶4年(880年) 2月8日:臣籍降下(源朝臣姓)。6月21日:子女が臣籍降下(源朝臣姓)。10月7日:伊予守
- 元慶5年(881年) 12月13日:左近衛権中将[2]
- 元慶6年(882年) 2月3日:兼備前守。2月:蔵人頭[3]
- 元慶8年(884年) 2月4日:去蔵人頭(譲位)[4]。11月25日:正四位下
- 仁和3年(887年) 2月17日:兼伊勢権守
- 寛平3年(891年) 正月30日?:止伊勢守[4]。3月19日:参議[2]。4月11日:宮内卿[2]。9月10日:薨去[5]