清原 元輔(きよはら の もとすけ)は、平安時代中期の貴族歌人内蔵允清原深養父の孫で[注釈 1]下総守清原春光の子[注釈 1][注釈 2]官位従五位上肥後守。娘に清少納言がいる。三十六歌仙の一人。

 
清原 元輔
清原元輔(狩野安信『三十六歌仙額』)
時代 平安時代中期
生誕 延喜8年(908年
死没 永祚2年(990年)6月
神号 清原神社祭神
墓所 熊本市春日1丁目の清原神社
官位 従五位上肥後守
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 清原真人
父母 父:清原春光[注釈 1][注釈 2]、母:高向利生娘
兄弟 元輔、元真
為成戒秀致信正高清少納言
藤原理能室
特記
事項
三十六歌仙の一人
梨壺の五人の一人
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経歴

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村上朝天暦5年(951年)正月に河内権少掾に任ぜられるが遙任であったらしく[1]、同年10月に勅撰和歌集撰集の命により、元輔は撰和歌所寄人に任ぜられ、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓読作業や『後撰和歌集』の編纂に当たった[2]応和元年(961年少監物に任ぜられると、翌応和2年(962年)中監物に昇格する。

大蔵少丞を経て、冷泉朝初頭の康保4年(967年)10月に民部卿藤原在衡の申請によって民部少丞に転じ[3]、12月には民部大丞に昇格する。

円融朝初頭の安和2年(969年)62歳にして従五位下・河内権守に叙任された。天延2年(974年周防守に任ぜられ遂に受領となるが、周防国は長門国河内国とともに時として鋳銭司がおかれて貨幣鋳造が行われることがあったが、この時もこの鋳銭事業が行われたらしく元輔は鋳銭長官も兼ねている[4]。また、周防守在任中に薬師寺の造営を担当し[5]、その功労により天元3年(980年)従五位上に叙せられている[6]

寛和2年(986年)79歳の高齢で肥後守に任ぜられ、再び受領として九州に赴く。元輔は上国である周防国の受領を一期勤め上げたことから、一定程度の経済基盤を築いたと想定されるが、子息の官途がはかばかしくなかったことから、清原家の家庭経済はそれほど裕福でなかった可能性があり、それが高齢での地方赴任に繋がったとも考えられる[6]。また、この任官は娘(清少納言)婿の橘則光の母で、花山天皇の乳母である右近が天皇に強力に推薦した結果と想定される[7]

永祚2年(990年)6月に赴任5年目にして任地にて卒去。最終官位は従五位上行肥後守。享年83、当時としては非常に長命であった[2]

熊本市清原神社(北岡神社飛地境内)に、祭神として祀られている。

人物

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歌人としての評価

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後撰和歌集』を編纂した梨壺の五人のひとりとして、40代の村上朝から名声高く、歌人として特殊な地位を得ていた。藤原公任による『三十六歌仙』や、藤原定家の『百人一首』に選ばれるとともに、『拾遺和歌集』(49首)以下の勅撰和歌集に106首が入集するなど、『二十一代集』の著名作者として重視すべき歌人の地位にある[8]

ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは

 
小倉百人一首の読み札に描かれた清原元輔の肖像。

家集に『元輔集』がある。群書類従本156首、歌仙歌集本262首、前田家本192首があり、他人の作品や重複を除いて実数は510首にのぼる[9]。これらによると、元輔は当時の権力者の家に頻繁に出入りして、儀礼の具として製作した和歌が多く、これを準職業的なものとしていたらしい。特に、小野宮家藤原実頼頼忠実資らに対するものは20首を越えている[8]

元輔が歌人として高名だったことは、没後の一条朝における以下のような逸話から窺える。

  • 女房勤めした折に清少納言が「父の名を辱めたくないので歌は詠まない」といって許された(『枕草子』)。
  • 中宮・藤原定子から「元輔が 後といはるる 君しもや 今宵の歌に はづれてはをる」との和歌が清少納言に贈られた(『枕草子』)[10]

また、鎌倉時代順徳天皇も、元輔と大中臣能宣とを並べて「重代為すの上、尤も然るべき歌人也」と評している(『八雲御抄』)

和歌の製作態度は沈思型ではなく、口に任せて和歌を即吟したと言われている(『袋草子』)

逸話

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元輔が賀茂祭奉幣使を務めた際に落馬し、が滑り落ちて禿げ頭が露わになった[注釈 3]。夕日を浴びた禿頭が爛々と輝く様を周囲の者が見苦しいと笑うと、元輔は脱げ落ちた冠をかぶろうともせずに、落馬して冠を落とした人々の例を挙げて物見車の一台一台に長々と丁寧に弁解し、理屈を述べて歩いた。その様子を見て、見物人はさらに面白がった[11]。元輔は世慣れた人物で、いちいち物事を面白おかしく言って人を笑わせることを役目とする老人だったと語り継がれていた、いう逸話がある(『今昔物語集[12]宇治拾遺物語[13])。清原元輔のひょうきんな一面をうかがうことができる。

官歴

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『三十六人歌仙伝』による。

系譜

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関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b c d 元輔の父を深養父とする説もある。
  2. ^ a b c 父の名を「顕忠」とする系図もあるが、藤原元輔の父・藤原顕忠と混同した誤りと考えられている。
  3. ^ 当時は常に(就寝時、入浴時であっても)烏帽子や冠など被りものを着けるのがマナーとされ、被り物のない頭を晒すのは大変な恥とされた。
  4. ^ 「周防命婦」と呼ばれる夫人の存在が示唆されている[14]。元輔に周防守の経歴が在ることよりこの女房名が与えられたものとも推測されるが、経歴は未詳。

出典

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  1. ^ 岸上 1962, p. 26.
  2. ^ a b 五味 2014, p. 50.
  3. ^ 岸上 1962, p. 27.
  4. ^ 岸上 1962, p. 28.
  5. ^ 『日本紀略』天延元年5月3日条
  6. ^ a b 岸上 1962, p. 29.
  7. ^ 岸上 1962, p. 83.
  8. ^ a b 岸上 1962, p. 31.
  9. ^ 岸上 1962, p. 32.
  10. ^ 『枕草子』99段「五月の御精進のほど」
  11. ^ 清少納言の父・清原元輔が辿った生涯|晩年に至るまで歌壇で活躍した歌人【日本史人物伝】”. サライ.jp. 小学館. p. 2 (2024年2月17日). 2024年7月21日閲覧。
  12. ^ 『今昔物語集』28巻「歌読元輔賀茂祭渡一条大路語第六」
  13. ^ 『宇治拾遺物語』13巻「元輔落馬の事」
  14. ^ 『檜垣嫗集』の詞書より。
  15. ^ 『小右記』長和5年2月3日条
  16. ^ a b c 「清原系図」『続群書類従』巻第173所収
  17. ^ 『尊卑分脈』

参考文献

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関連項目

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