深田 金之助(ふかだ きんのすけ、1917年1月19日 - 1986年11月27日)は、日本の映画監督映画製作者、元撮影技師である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]

ふかだ きんのすけ
深田 金之助
本名
生年月日 (1917-01-19) 1917年1月19日
没年月日 (1986-11-27) 1986年11月27日(69歳没)
出生地 日本の旗 日本 島根県八束郡揖屋村
職業 映画監督映画製作者、元撮影技師
ジャンル 劇場用映画時代劇ピンク映画)、テレビ映画
活動期間 1935年 - 1967年
事務所 アートグループ
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人物・来歴

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撮影技師の時代

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1917年(大正6年)1月19日島根県八束郡揖屋村(現在の松江市東出雲町揖屋)に生まれる[1][3][8]。松江商工学校(現在の学校法人島根学園)を卒業後、松江高等簿記学校(現在の松江西高等学校)に進学したが、中途退学した[1]

1935年(昭和10年)、日活に入社し、日活京都撮影所撮影部で撮影助手になる[1][4]。1941年(昭和16年)、技師に昇進、同年5月11日に公開された『天兵童子 第一話 幼き英雄』(監督組田彰造)で撮影技師としてデビューするとともに、『天兵童子』4部作すべてを手がける[1][4][6][7][9]第二次世界大戦にともなう戦時統制により、日活の製作部門は他の2社と統合されて、1942年(昭和17年)1月27日、大日本映画製作株式会社(大映)を形成するが、このとき、大映に転社する[1]。同年7月には、杉山公平吉田貞次、加藤泰通(のちの加藤泰)らとともに満洲映画協会に移籍した[1][4][6][7][11]

東映時代劇の時代

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戦後は、終戦翌年の1946年(昭和21年)に帰国した[4]。1950年(昭和25年)、稲垣浩に師事して助監督に転向する[1][4]。この時代の稲垣は、世田谷区東宝撮影所で時代劇を手がけた時代であり[12]、『旅はそよ風』(1953年)の助監督に深田の名がみられる[13]。1951年(昭和26年)6月18日に公開された『玄海灘の怒濤篇 阿修羅龍鬼隊』では、近藤勝彦と共同で演出を行い、初監督を経験する[4][5][6][7]東映京都撮影所と契約し、1955年(昭和30年)には『雄呂血の秘宝』で監督に昇進、同作は同年12月20日に公開された[1][6][7][8]。1956年(昭和31年)8月には、『明星』(第5巻第11号、集英社)に『熱血小説 阿蘇の血闘』(挿画・堂昌一、1926年 - 2011年)を発表している[14]。その後、わずか8年の期間に42本もの監督作を量産したが、1963年(昭和38年)10月29日に公開された『無法の宿場』を最後に東映を退社した[5][6][7][8]

高岡昌嗣の東伸テレビ映画が製作する連続テレビ映画白馬の剣士』(第1期、主演山城新伍)等を監督したが、翌1965年(昭和40年)には、テレビ時代劇の世界から離れる[10]

成人映画の時代

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1965年11月に公開された『血と肉と罪と』を監督し、成人映画の世界に進出する[2][5][7]。同作は、加山恵子(1940年 - )が主演し、極東映画社が製作、東京企画六邦映画説あり)が配給した[5][7]。株式会社極東映画社は、新外映配給の関西営業所長であった小柴芳雄が大阪府大阪市北区堂島船大工町(現在の同区堂島1丁目)に設立した会社であった[15]。立て続けに創作8プロダクションの製作により、加山恵子を主演にした映画を3作手がける[5][6][7]。同社の作品には、東映京都撮影所の女優であった日高綾子が企画・製作に名を連ね、出演もしている[16]

日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白山本晋也湯浅浪男宮口圭藤田潤一小倉泰美浅野辰雄渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、深田の名を挙げている[2]西原儀一は、既存の映画監督のなかでこの時期に成人映画を手がけた監督として、小川欽也、福田晴一、倉橋良介田中徳三萩原遼とともに、深田の名を挙げた[17]

1966年(昭和41年)3月、自らの製作会社アートグループを設立[2]、第1作として、橘桂子を主演に『未婚のひめごと』を製作・監督、同月に公開した[7]。次に橘を主演に『情炎の報酬』『女の中の性』を製作・監督、同年4月および5月に公開している[7][18]。東映京都撮影所の助監督であった西原和紀[19]と共同で監督し、可能かづ子を主演に『女豹一番勝負』、桧みどりを主演に『真赤な砂』を企画・監督、それぞれ同年6月および8月に公開している[5][6][7]。翌1967年(昭和42年)7月11日、加山恵子の主演作『快楽の罠』を監督し、日高綾子とともに創作8プロダクションで製作、小森白東京興映が配給して公開されたのを最後に沈黙した[5][6][7][8][9][10]。満50歳のときであった[1][3]

1986年(昭和61年)11月27日、死去した[3]。満69歳没。東京国立近代美術館フィルムセンターは、深田が三井六三郎の助撮影として参加した『三味線武士』(監督衣笠十四三)のほか、『玄海灘の怒濤篇 阿修羅龍鬼隊』、『若さま侍捕物帖 深夜の死美人』、『遊侠の剣客 つくば太鼓』、『血と肉と罪と』、『女豹一番勝負』、『真赤な砂』の6本の監督作の上映用プリントを所蔵している[5]

フィルモグラフィ

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クレジットは特筆しないものはすべて「監督」である[5][6][7][8][9][10]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[5]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j キネ旬[1956], p.54.
  2. ^ a b c d 田中[1976], p.85-86.
  3. ^ a b c d 深田金之助jlogos.com, エア、2014年6月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 深田金之助、ぴあ映画生活、ぴあ、2014年6月19日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 深田金之助東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月19日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 深田金之助、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月19日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 深田金之助日本映画データベース、2014年6月19日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 深田金之助KINENOTE, 2014年6月19日閲覧。
  9. ^ a b c d 深田金之助日活データベース、2014年6月19日閲覧。
  10. ^ a b c d 深田金之助テレビドラマデータベース、2014年6月19日閲覧。
  11. ^ 西本ほか[2004], p.40.
  12. ^ 稲垣浩 - 日本映画データベース、2014年6月19日閲覧。
  13. ^ 高瀬[2000], p.425.
  14. ^ 明星 5(11)国立国会図書館、2014年6月19日閲覧。
  15. ^ 年鑑[1968], p.392.
  16. ^ 日高綾子 - 日本映画データベース、および日高綾子 - 日本映画データベース、2014年6月19日閲覧。
  17. ^ 西原[2002], p.154.
  18. ^ a b キネ旬[1973], p.26.
  19. ^ 西原和紀 - 日本映画データベース、2014年6月19日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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