深堀游亀
日本の陸軍軍人
深堀 游亀(ふかぼり ゆうき、1895年9月12日 - 1952年11月21日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。東京市出身。
深堀 游亀 | |
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生誕 |
1895年9月12日 日本 東京府東京市 |
死没 | 1952年11月21日(57歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1916 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 青山霊園 |
経歴
編集- 1909年(明治42年) - 陸軍中央幼年学校入校(第13期)
- 1912年(明治45年) - 同校卒業、陸軍中央幼年学校本科入校
- 1914年(大正3年)- 同校卒業、陸軍士官学校入校(第28期)
- 1916年(大正5年) - 同校卒業、近衛歩兵第2連隊、見習士官。12月 陸軍歩兵少尉任官
- 1918年(大正7年) - 11月、第7師団司令部(金沢)、シベリア出兵従軍
- 1919年(大正8年) - 4月、第14師団司令部(名古屋)
- 1920年(大正9年) - 4月、陸軍歩兵中尉、原隊復帰
- 1921年(大正10年) - 8月、ロシア語習得のため、1年間ハルビン留学
- 1923年(大正12年) - 4月、陸軍参謀本部の招きで来日したポーランド陸軍のヤン・コワレフスキー大尉の元で臨時派遣ロシア語将校として暗号指針を学ぶ。9月、陸軍士官学校ロシア語教官
- 1925年(大正14年) - 12月、陸軍大学校入校(第40期)
- 1926年(大正15年) - 12月、陸軍歩兵大尉
- 1928年(昭和3年) - 12月、陸軍大学校卒業、近衛歩兵第2連隊中隊長
- 1930年(昭和5年)- 8月、第16師団参謀、満州遼陽に派遣される
- 1931年(昭和6年) - 4月、内地帰還。第16師団(京都)参謀。8月、陸軍歩兵少佐
- 1932年(昭和7年)- 5月、陸軍参謀本部ロシア班
- 1933年(昭和8年)- 4月、在ソビエト連邦・ノヴォシビルスク領事館勤務
- 1934年(昭和9年) - 4月 陸軍歩兵学校教官兼研究部主事
- 1935年(昭和10年) - 4月、歩兵第49連隊第1大隊長(甲府)
- 1936年(昭和11年) - 2月、二・二六事件発生、甲府より鎮圧部隊として愛宕山に出動。3月朝鮮軍参謀。8月、陸軍歩兵中佐
- 1937年(昭和12年) - 11月、支那派遣軍司令部報道部長として南京入城[1]
- 1938年(昭和13年) - 3月、関東軍司令部。7月、陸軍歩兵大佐、第4軍参謀(満州牡丹江)
- 1939年(昭和14年) - 4月、近衛歩兵第2連隊長。11月、同連隊を率いて南寧作戦に従軍
- 1940年(昭和15年) - 5月、公主嶺歩兵教導連隊長兼教官
- 1941年(昭和16年)- 11月、牡丹江特務機関長
- 1942年(昭和17年) - 8月、陸軍少将
- 1943年(昭和18年) - 6月、ニューギニア・ティモール島守備第48師団歩兵団長
- 1944年(昭和19年) - 3月、第2方面軍附ニューギニア・マノクワリ支隊長[2]
- 1945年(昭和20年) - 2月、第2方面軍参謀長。5月陸軍中将、東部軍管区司令部。7月、第322師団長に親補。8月、大本営参謀。12月復員
受章等
編集- 位階: 従三位功四級
- 勲位: 勲二等瑞宝章
親族
編集脚注
編集- ^ 日米開戦4年前の当時ですら、上海派遣軍司令官松井石根大将、深井、原田熊吉支那大使館付武官ら司令部内の会話を逐一記録したスパイ網を、アメリカ海兵隊は既に築いていたという(ケント・ギルバート著『いよいよ世界に本当の歴史を発信する日本人』PHP研究所、2016年8月8日発売『第二章 なぜ日本は「スパイ天国」なのか?』犬耳書店)。
- ^ 深堀の在任当時に支隊に従軍していた一人に俳優の加東大介がいる。加東の著書『南の島に雪が降る』のモチーフになったのはその時代である。加東の著書の中にも「深堀司令官」の実名で登場する。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」13頁。