淡海乃海 水面が揺れる時

淡海乃海 水面が揺れる時』(あふみのうみ みなもがゆれるとき)は、イスラーフィールによる日本歴史改変SF。 SFジャンルの歴史改変SFの一つで、自身が転生前に過ごした世界の過去に転生し、歴史や科学の知識を元に歴史を改変していく物語。

  • 2016年03月21日、小説家になろうにて投稿を開始。
  • 2017年11月10日、TOブックスから書籍化。[1]
淡海乃海 水面が揺れる時
ジャンル 歴史改変SF
なろう系
小説
著者 イスラーフィール
出版社 TOブックス
掲載サイト 小説家になろう
刊行期間 2016年03月21日 -
巻数 既刊16巻、外伝1巻(2024年6月現在)
話数 254話(2024年6月現在)
漫画
原作・原案など イスラーフィール
作画 もとむらえり
出版社 TOブックス
掲載サイト comicコロナ→コロナEX
レーベル コロナ・コミックス
発表期間 2018年12月10日 -
巻数 既刊10巻(2024年6月現在)
テンプレート - ノート
プロジェクト 漫画
ポータル 文学漫画
  • 2018年12月10日、TOブックスからコミカライズ連載開始。[2]
  • 2020年03月25日、初の舞台『淡海乃海ー声無き者の歌をこそ聴けー』が上演。[3]

概要

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朽木元綱として誕生した転生者が歴史や現代の知識を使いつつ、戦国時代を平定する話。
周囲から竹若丸と呼ばれる自分が後の朽木元綱だと判り、当初は史実より上手く立ち回って江戸時代に十万石ぐらいの大名として存続することを目標とした。
ただ、朽木元綱について知っていたのは織田信長越前からの撤退戦(朽木越え)関ケ原での寝返りで名前を見た程度で、それ以外は全く知らなかった(朽木の読みが「くき」ではなく「くき」だと思っていたレベル)。
そして二歳にして父を喪い、ただ生き延びるためだけに勝ち続けた結果、自身が天下統一の道を歩むことになる。

淡海乃海

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作品タイトルとなっている淡海乃海は字のごとく「淡水の海=大きな湖」のことで、現在の琵琶湖の古称。琵琶湖#呼称も参照
淡海または淡海乃海は古事記日本書紀に記載があり、読みは古事記に「阿布美能宇美」とあることから「あふみ」「あふみのうみ」とされる。
琵琶湖は主人公が転生した戦国期は一般に「あふみ」と呼称されるが、公家出身の母は万葉集の「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば 情もしのに古思ほゆ」から「あふみのうみ」と呼んでいる。
ちなみに、今の滋賀県に位置する近江国は「近い淡海のある国」を意味する近淡海国から、それと対比する「遠い淡海」は浜名湖を指し、今の静岡県西部に位置する遠江国は「遠い淡海のある国」を意味する遠淡海国からとなる。

あらすじ

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竹若丸

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天文十九年(1550年)十月、敗戦によるの戦死という危機的状況で二歳にして朽木家当主となった主人公は、その逆境を祖父の後見と将軍足利義藤一行の来訪(政争に敗れて退避)という幸運で切抜けて以降、前世知識による「富国強兵」「殖産興業」政策を進める。
永禄元年(1558年)、御大典の儀を期に将軍義藤は京に帰還、永禄二年(1559年)、周囲の勢力(高島越中)との最初の抗争が発生する。兵数的に劣勢な中で、当時の最新兵器である鉄砲の集中運用と地理的な特性を活用して撃退、策略を併用して近江高島郡の大半をその手中に治める。
支配地を急拡大したことで近江の守護大名六角義賢に目を付けられ、六角からの離反を明らかとしていた浅井氏との戦いに巻き込まれ、湖西から湖北へと進出、永禄三年(1560年)、六角側で野良田の戦いに参陣して、浅井長政を始めとする有力諸将を討ち取る殊勲を挙る。

弥五郎

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永禄四年(1561年)三月、六角家との関係強化のため義賢の養女(小夜、重臣平井定武の娘、浅井長政の先妻)との婚儀に際して、元服して弥五郎基綱と改める。
同年六月、小谷城が落城して浅井家は滅亡。これにより六角との関係は安定したかに思えたが、六角家嫡男義治との確執が表面化する。永禄五年(1562年)四月、義治主導で六角家が美濃不破に侵攻、これにより美濃一色氏との抗争が長期化すると六角領内の不満が高まり、家督争いも絡んで義治と周囲の不和が激化していった。 同年暮れに将軍義輝の仲介で和睦が成立、六角は美濃から撤退して義治が当主となるが六角家内の騒乱は収まらず、永禄六年(1563年)四月、大規模な内紛(観音寺騒動とはやや異なる)が発生すると、主人公は帰属を希望する旧浅井領を受け入れるとともに、浅井家の後ろ盾として敵対関係にあった越前朝倉家加賀一向一揆との戦いに手一杯な状況を利用して、同年十月、敦賀を攻めとり木ノ芽峠に防御線を構築する。これにより日本海での交易拠点を手に入れ、日本海(敦賀)から近江を経由して京都に至る物流ルートを全域掌握する。また美濃と接した事で、斎藤義龍と抗争中の尾張織田信長と緩い同盟関係を結ぶ。
その間にも六角家の内紛は続き、ついに将軍家の御扱で義治は廃され、六角の血を引く細川晴元の次男が輝頼と改名して家督を継ぐ。しかし、六角家家臣団と新当主に付き添ってきた幕臣との軋轢が新たな争点となり、朽木領になった旧浅井領を巡って主人公とも確執が生まれる。
永禄7年(1564年)、当時の天下人三好長慶が逝去。畿内を中心に動揺が広がり、丹波で反三好の挙兵が成功、同じころ越前では朝倉家が滅亡する。こうした中で永禄の変が起こり、将軍義輝が三好家に殺され、将軍家を後ろ盾とした六角輝頼はさらに弱体化していく。また河内紀伊の守護畠山高政が反三好で挙兵するなど、畿内の戦乱は拡大の一途をたどっていく。
永禄八年(1565年)、主人公は木ノ芽峠で一向一揆勢を撃退すると領内の本願寺勢力(堅田門徒)を制圧、更に介入してきた比叡山焼き討ちを決行、湖西の宗門勢力を一掃する。
永禄九年(1566年)、将軍と六角を後ろ盾としていた若狭武田氏を攻め滅ぼす。その遠征中に三好家が、三好義継派(松永久秀内藤宗勝)と三好実休派(安宅冬康三好三人衆)に分裂する。

大膳大夫

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永禄九年(1566年)、畿内で動乱が続く中、朝廷からの打診を受けて従四位下大膳大夫に叙任される。
永禄十年(1567年)、義継派に擁立された義輝の弟義秋の策による六角・朽木・斎藤・織田の4家連合軍が結成され、平島公方家の足利義栄を擁立した実休派打倒の上洛戦が始まる。この連合軍は六角と斎藤が離反して瓦解するが、予期していた朽木軍は三好軍との決戦(第一次山科合戦)に勝利し、六角家を滅ぼして、更に越前に押し寄せてきた加賀飛騨の一向一揆を木ノ芽峠で殲滅する。また、旧六角家の影響下にあった北伊勢にも影響力を及ぼすことになる。
永禄十一年(1568年)、以前より友好関係を継続していた越後上杉輝虎と共同で北陸平定戦を開始。前年の勝利(木ノ芽峠の根切り)で弱体化した北陸の一向一揆を掃討、越中で上杉・椎名軍と合流して最後は能登を制圧する。(能登には旧守護の畠山親子を戻す) 永禄十二年(1569年)、主人公は伊勢に侵攻を開始する。一軍を持って伊勢に侵攻して長島一向一揆北畠家南伊勢)を残して他を制圧。いったん軍を戻して別軍を率い、内紛が勃発した能登を制圧。さらに最初の軍を率いて伊勢に再侵攻、完全に油断していた北畠具教を下して伊勢をほぼ統一する。
永禄十四年(1571年)四月、満を持して長島一向一揆を排除、次いで反朽木の北畠本家を粛清して伊勢を完全に掌握する。これにより織田家が美濃を制して今川家遠江駿河)への侵攻を開始すると、朽木領の東側は同盟国(上杉・織田)で占められ、その目は必然的に西(畿内)を向く事になる。
畿内では分裂した三好家の一方、大和の義継派と紀伊の畠山高国が連携して、畿内の大半を制した実休派に抵抗を続けていた。そして優勢な実休派により(病没した義栄の弟)足利義助が第14代将軍に就任する。
主人公は前将軍義輝の忠臣とされていたため、自然と義昭(前年に改名)支持派と見做されていた。その風評に義昭が便乗して、朽木の上洛は当人の意思に関係なく既定事実化していく。主人公もこの状況に逆らい難く、遂に永禄十四年(1571年)十月に上洛戦を開始、山科で実休派を撃破(第二次山科合戦)して畿内を制圧する。実休派は余力を残しつつ本拠地(阿波讃岐淡路)に退き、将軍義助も平島公方家に退去する。
畿内を制した主人公だったが義昭との関係は良好とは言えず、義昭が要求する義助の将軍解任も「好ましからず」として自主的な返上を促す穏健策を主張して近江に帰る。畿内を味方で固めた義昭だったが、朽木不在を好機と見た実休派が永禄十五年(1572年)三月に急襲を仕掛けて窮地に陥る。この襲撃は急派された朽木軍により阻まれ、改めて摂津が朽木領となり、主人公は前の政所執事伊勢貞孝を復職させ、幕府の実権を掌握する。
その後は旧知の三好長逸を通じて実休派との関係改善に努め、永禄十六年(1573年)二月に義助の将軍位返上と義昭の将軍即位を成し遂げる。しかし義昭との不仲は続き、同年六月に勅命による禁裏御料(丹波国山国庄と小野庄)奪還のため丹波に攻め入るが、その際に不穏な動きがあったとして義昭派(侍所頭人)の丹後一色左京大夫を滅ぼす。

近江少将

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永禄十六年(1573年)八月、御料奪還の功績により正四位下左近衛権少将(四位少将)に叙任(越階)される。
その後、丹波に残存していた反朽木派(波多野氏赤井氏)を威圧と調略で自壊させ全土を掌握、播磨英賀)の一向宗を睨みつつ、一向宗本願寺派の総本山石山本願寺への圧力を強める。元亀三年(1575年)一月、長島一向一揆の残党(証意)が恭順して石山本願寺を離脱すると、四月に5万の大軍で包囲された石山本願寺は、六月に”朝廷の御扱い”の和睦で放棄され、顕如は西国へと落ちていった。
その直後、「関東管領上杉輝虎殿、中風にて倒れる」の急報が届く。輝虎は何とか一命は取り留めるが半身に麻痺が残り、急遽後継者に擁立された甥の上杉喜平次(景勝)の立場を強化するため、主人公の長女(竹姫)との婚儀が急遽決定する。
元亀四年(1576年)、5万を動員して播磨に侵攻して瞬く間に制圧するが、備前宇喜多直家の史実での事績を知る主人公は味方にする事を嫌い、いったん軍を収める。そして宇喜多と対立する備中三村元親と密かに通じるが、元親は宇喜多直家に暗殺され、備中は毛利家が制圧する。それに対して主人公は山陽・山陰の両面で謀略戦を仕掛け、諸将の毛利家への疑心暗鬼を醸成していく。
同年八月、3万を動員した竹姫の輿入れの行列が近江を発し越後に向かう中、将軍義昭が京で挙兵する。主人公はその裏に毛利家の謀略を感じ取り、対毛利の謀略戦を強化して宇喜多直家を追い詰めていく。

近江中将

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挙兵した将軍義昭を西国に追い払った元亀四年(1576年)九月、従三位左近衛中将(三位中将)に叙任される。
元亀五年(1577年)、織田・徳川連合軍により、甲斐武田家滅亡(徳川家は三河から甲斐に国替え)。続いて備前宇喜多家で大規模な内紛が発生して直家が家臣に殺され、遂に朽木と毛利が備前で直接対峙する事になる。
天正二年(1578年)三月、対毛利戦を優勢に進める主人公の下に、織田信長が「飲水の病」(現在の糖尿病)との報告が入る。後背の同盟国(織田家)に不安を感じた主人公は、備前・美作を制圧すると史実に倣い備中高松城水攻めを敢行、毛利家は史実と同じく屈服し、朽木家に臣従を誓った。

亜相

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天正二年(1578年)九月下旬、参議(宰相)に昇進、その十日後に中納言(黄門)に昇進する。翌年の天正三年(1579年)二月、右近衛大将に昇進(一か月ほどで辞任)。同年七月、権大納言(亜相)に昇進する。
天正三年(1579年)八月、相模北条氏小田原城を包囲していた織田信長が戦死(享年46)。陣中で卒中の発作を起こして昏睡状態となり、それを察知した北条軍の奇襲により大敗。また敗走中に嫡男織田信忠も戦死。十二月、旧領回復のため北条勢が伊豆に出兵した隙を徳川に突かれて、小田原落城(北条家・今川家滅亡)
天正四年(1580年)、土佐一条家に内紛が発生して出兵する。騒動の元となった一条兼定長宗我部元親を引退させ、それぞれの嫡男が朽木家の家臣として家を継ぐことになる。また琉球との交易独占を目論む薩摩島津家を牽制するため、豊前大友宗麟肥後龍造寺隆信の和睦を斡旋する。
同年十月上旬、主人公の嫡男堅綱率いる朽木軍による美濃侵攻が始まり、十一月下旬に制圧。

前内府

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天正五年(1581年)一月、従二位内大臣(内府)に補任される(一か月ほどで辞任)。
禎兆元年(1581年)四月下旬、美濃と伊勢から尾張に侵攻を開始、五月には織田信意が降伏、旧織田領(尾張三河遠江駿河伊豆)を平定。八月に堅綱に朽木家の家督と旧織田領五か国を譲る。
同時期、帝の代替わり(正親町天皇後陽成天皇)を機に薩摩に居る将軍義昭の上洛を計画するが、同年十二月に義昭は顕如に殺害され、顕如も自害する。

禎兆二年(1582年)、正二位に昇進、さらに源氏長者に就任。
禎兆三年(1583年)二月、総勢十万を超える軍勢で、九州攻めを開始する。島津に攻められ滅亡寸前の大友家と島津の誘いに乗らなかった竜造寺家は朽木方に付き、5月には秋月氏を始めとした北九州の反朽木勢力を制圧する。そして豊後から日向へと南下を始めた朽木軍に対して島津も主力を日向に集結させ、同時に土佐からの別動隊上陸を警戒する。しかし、別動隊二万が上陸したのは島津の本拠地薩摩であった。これにより島津勢は混乱、さらに救援のため薩摩へ向かう島津本隊の後方に新たな別動隊一万が上陸して動きを封じられる。島津勢は各個撃破され、島津本隊が大隅鹿屋城にて滅亡したのは九月であった。
薩摩で九州の仕置きを行っていた主人公に、阿波にて三好阿波守により(将軍位を返上した14代将軍)権大納言足利義助が殺害された報が届く。

相国

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禎兆四年(1584年)、従一位太政大臣(相国)に補任される。
四国では、三好阿波守が一族三好久介、重臣篠原長房を滅ぼし、三月にはその三好阿波守を異母兄細川掃部頭が滅ぼす。細川掃部頭は五月には讃岐の十河民部大輔を滅ぼし、残った淡路水軍を率いる安宅甚太郎は朽木に服属する。そして七月、朽木による四国出兵が開始され、十月には制圧を終える。 禎兆六年(1586年)一月、地震(史実の天正地震)が発生して負傷、領内でも広範囲に被害を出す。九州では「重傷」との虚報が流れ、竜造寺家が大友家に攻め入る。 同年十一月、総勢十五万を動員し、二回目の九州攻め(龍造寺討伐)を開始。翌禎兆七年(1587年)二月、肥前国太田城にて龍造寺隆信死亡。

改変

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主人公は前世で歴史改変物の小説執筆を考えており、二歳で当主となると後見の祖父を通して、その際に考案した施策を使って領内改革に着手する。祖父に”何をするつもりじゃ?”と問われた主人公は、富国強兵殖産興業所得倍増を挙げた。(祖父には富国強兵しか通じなかった)
また朽木家が拡大するにしたがって、単に領内を豊かにするだけではなく、日本全体の統治体制や舵取りを考えるようになり、周辺国(琉球、明、朝鮮)やアジアに進出した欧州列強(キリスト教)との外交も主要な課題となっていった。

朽木谷

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  • 殖産興業
領民に種を配布して、換金性の高い綿花の栽培を奨励する。当時国内生産は少なく、多くを輸入に頼っていた綿は需要が高かった。また石鹸の製法を領民に教え、菜種油や綿花栽培の副産物(綿実油)を使って石鹸生産も奨励する。
他に朽木家の家業として、澄み酒醸造椎茸栽培を始める。当時の日本酒はまだ濁り酒が主流であり、椎茸の栽培技術は無かった。
また澄み酒の普及により、朽木領の木地師塗師による多彩な色彩を施した木製の酒杯(濁り酒では模様が見えにくい)も人気となり、主要産地の一つに成長するなど、波及効果も見られた。
  • 領地経営
税制は、税率を四公六民に軽減し、納税は米から銭に転換する。また関を廃して、楽市楽座を宣言する。
この税制と換金産物の生産により領内に銭が浸透し始め、旧来の米本位制から貨幣経済に切り替わっていく。
なお楽市楽座は、豊かになったとはいえ朽木領程度では効果が出るほどの経済規模は無く、関の廃止と併せて商人たちから「朽木は商売がしやすい」と高評価された事の方が大きい。ただ、領地が広がるにつれて、楽市楽座も効果を発揮していく事になる。

これら施策の成功は、朽木が山間地とはいえ大消費地の京都に直結する街道沿いで、昔から多くの商人が行きかう地理的な好条件下に位置していたことが大きい。朽木家も街道を行き来する若狭の商人達と繋がりがあり、関所の廃止もあって良好な関係性を深めていく。

  • 軍事関連
朽木に避難していた将軍義藤に頼んで、天文二十二年(1553年)に近江国友村から鉄砲鍛冶を呼び寄せる。
当時すでに鉄砲の産地として知られた国友であったが、その起源は義藤の実父で第11代将軍の足利義晴が見本となる銃を渡して製造を命じたことによる。その経緯もあって製法を門外不出と定めていた国友村も依頼を断れず、移住した鉄砲鍛冶から朽木の鉄砲生産が始まった。主人公の初陣となった永禄二年(1559年)の戦いでは、総勢300の朽木勢の中で、鉄砲隊は200と過半を占めた。
将軍ブランドを使った策は続き、各地の刀鍛冶に”将軍の為の刀を打ってみないか?”と勧誘をかけ、応じた複数の流派の刀鍛冶が朽木に移住して、それらが融合して後に朽木物と呼ばれる刀の産地となる。
また、義藤(義輝)が後世「剣豪将軍」と呼ばれていたことを思い出し、天文二十三年(1554年)鹿島から将軍指南として塚原卜伝の弟子を招聘する。指南を受けるのは将軍だけではなく、朽木家にも道場を設えて将兵の鍛錬に寄与させた。
同時期、大叔父朽木惟綱が預かる支城の西山城で極秘に硝石生産を始め、火薬の生産に着手する。この朽木領での火薬生産は後々まで秘匿された。
また銭に余裕が出来ると傭兵(銭で雇った兵)を集め、兵農分離を進めていった。

国内・組織

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税制(四公六民、銭による納付)や関の廃止・楽市楽座は後々まで堅持され、綿花と石鹸の奨励は北陸や伊勢に伸張した時期までは言及がある。そのほかに、鉄砲生産は国友や堺などと並ぶ一大生産地に発展している。硝薬も生産量を順次増強していったと思われるが、作中ではあまり具体的に触れられていない
朽木家の家業(清酒、椎茸)については、北近江に進出した当時までで、戦国大名として認知され始めた時期には触れられ無くなっていった。

  • 八門衆
主人公が使う忍者組織。名称は朽木家に仕官した際に、主人公が命名した。
元は源平合戦の時代に九郎判官に仕えた、黒野慈現坊など鞍馬山に集まった”羽黒山伏”達の末裔。義経滅亡後は上方に逃れ、承久の乱で上皇方に付いて敗北。その後は丹波山中に隠れ住んで建武の新政の前後は足利方に付いたが、高師直師泰兄弟の滅亡に連座、そのまま雌伏の時を過ごしていた。
同じ山の民の木地師などから主人公の噂(領内改革など)を伝え聞き、天文二十三年(1554年)七月、統領の黒野重蔵影久が自ら主人公と接触して売り込む。この時”くらま流忍者百五十名、一族総勢四百名”と申告している(当時八千石の朽木の動員力は約300)。
実働部隊は十の組に分かれ、情報収集に長けており、調略や他国領内で流言飛語を広めるなど謀略戦にも活躍する。戦場で大将首を狙うなどの描写は無く、直接的な戦闘力に秀でている印象は薄いが、後に主人公の暗殺を狙う丹波忍び(村雲党)との戦いでは激烈な抗争に打ち勝っている。
拠点は仕官後も丹波山中のままであったが、丹波の波多野氏(配下の村雲党)との戦いが予想され始めた永禄十四年(1571年)、朽木谷に近い近江三国岳の麓に移動した。
  • 朽木仮名目録
永禄四年(1561年)浅井家を滅ぼして北近江を制した後に、領内支配の根本として分国法を定める。
基にしたのは今川仮名目録で、時代に合わせて調整されたもののほぼ同じ内容で、守護不入を否定している。
初期の領土拡張時に朽木に仕官した有為な人材(初期の軍略方・兵糧方など)の中には、竹中半兵衛(重治)の様にこの目録を見て朽木への仕官を決めた人物もいる。
  • 副将
主人公の初陣は元服前の11歳であり、譜代の日置五郎衛門(行近)が副将として付き添った。これ以降、朽木家では副将を置くことが恒常化した。
越前の旗頭となった五郎衛門に代わって真田弾正(幸隆)、そして弾正の引退で明智十兵衛(光秀)が務めている。明智十兵衛が対毛利攻めを担当した頃から触れらていない。
  • 軍略方・兵糧方
軍略方は主に対外戦の作戦立案を行う役職で、築城も担当する。最初は明智十兵衛、竹中半兵衛、沼田上野之助(祐光)が務めた。
兵糧方は主に後方支援であるが、事前の見積から実際の物資集積と輸送を担当しており、旧来の荷駄奉行(補給品の輸送担当)とは一線を画す要職となる。後に、領内の街道整備を担当する事になる。最初は(山口教継の庶子)山口新太郎(教高)、山内伊右衛門(一豊)が勤め、後に京から戻った伯父の朽木右兵衛尉(直綱)、朽木左衛門尉(輝孝)が加わる。
  • 評定衆
朽木家の政策方針や家臣間の紛争など話し合う評定に参加する役職。評定には奉行衆も参加、大評定では軍略方・兵糧方も参加する。
親族・譜代・外様からそれぞれ選ばれる。新規に制圧した地方(六角家や織田家など)から加わえることで、その地方の国人達の窓口になる事が多い。
  • 奉行衆
主に朽木家譜代の家臣が就任する役職。御倉奉行・公事奉行・殖産奉行・農方奉行などがある。
御倉は財政、公事は行政や司法、殖産は産業振興、農方は農政、を担当する。
  • 相談役
六角家の反朽木派として知られた蒲生下野守が引退した際に、相談役として登用したのが嚆矢となる。
主人公は「無理に隠居なんてさせると悪巧みしかねん。表に出して使った方が安全」と言っている。似た事例としては、主人公によって野心を潰され隠居させられた長宗我部宮内少輔も相談役となっている。
他は主人公に近い者(八門の黒野重蔵、舅の平井加賀守、元副将の真田弾正など)が引退した後に相談役となっている。また、飛鳥井曽衣は対立していた長宗我部の登用に併せて、三好家に仕えていた松永兄弟は義継の子が成長した事で、それぞれ相談役となった。
  • 海上交易
永禄六年(1563年)に日本海側の敦賀を得ると、海上交易に乗り出す。越後の長尾景虎とは将軍が朽木に居た天文二十二年(1553年)に会って以降、友好な関係を持続していたため越後から蝦夷地方面に交易船を出している。後に若狭の小浜港も加わり、朝鮮の船(私貿易船)を呼び寄せている。
太平洋側の伊勢・志摩を領すると、土佐を経由した琉球との交易を始める。これは京都の一条家が、土佐の分家を支援してもらうための交換条件として持ってきた話。これ以降、土佐の情勢は朽木にとって特別な意味を持つことになった。
  • 大砲
永禄十年(1567年)にポルトガル商人から、カルバリン砲セーカー砲を各3門購入。同年六月の第一次山科合戦で、各2門を実戦投入する。
残り1門を使って模倣生産を開始。元亀四年(1576年)の播磨攻略戦では「大筒を百二十門」を揃えて一向宗の拠点英賀を集中攻撃、大筒のみで城の構えを破壊している。
ただし、国内の複雑な地形から運搬には多大な労力を要し、意外と活躍する場面は少ない。
  • 南蛮船
永禄十一年(1568年)に小浜で最初の南蛮船を建造している。後に志摩でも九鬼孫次郎が建造を始める。主に若狭と九鬼の水軍が運用し、他国の水軍を圧倒する。
形式等の詳細は不詳であるが、当時の状況からキャラック船(ナウ船)の一種と想定される。
入手先も不詳だが、時期的にはカルバリン砲やセーカー砲と一緒にポルトガル人から購入したと思われる。
  • 街道整備
領内の関を廃して楽市楽座を実施するなど、領内経済の振興を重視していた主人公だが、街道整備に本腰を入れるのは意外と遅く永禄十二年(1569年)となった。
この年、伊勢侵攻を計画していたが、近江から伊勢への街道は急峻な地形から進軍・補給が容易ではなく、そうした中で家臣からの進言を受け入れ、領内の街道整備に着手する。
まずは近江と敦賀間で始まり、伊勢を制圧した後は近江伊勢間が加わり、領地が拡大するとともに整備する街道も拡大を続けた。
この大規模な街道整備は後方支援を担当する兵糧方の担当とされ、兵糧方は単なる補給・支援役ではなく膨大な予算と人員を扱う主要職として認められていく。
  • 相国府
太政大臣(相国)となった主人公が主催する政の府。
鎌倉以来の幕府体制に代わる武家の府として、主人公がたどり着いた体制。また将軍職は朽木家の世継ぎを示す職と定める。
主人公は、将軍職が令外官律令制に含まれない不正規の官職)であることから、新たな幕府を開くことには消極的な考えを持っており、既存の公家社会と干渉せずに並立出来る体制を模索していた。
その中で、太政官律令制による正規の官職)の最高職である太政大臣の地位が多くの場合で空いていることに着目し、昵懇であった摂家近衛前久らと話し合いを重ねて決断した。

外交

編集
土佐を経由した交易が早い内から始まり、一時期は交易を独占しようとする薩摩の島津家との争点ともなった。
島津を下した後は主人公から日本帰属を誘われるようになり、使節団を派遣している。当時の琉球では明の政策変更によって中継貿易が衰退する状況で日本との交易が重要度を増し、また明の情勢(万暦帝による治世)への危惧から、”表向き日本に帰属する”提案(事実上の保護国)は受け入れられつつあった。
しかし、ルソンからイスパニア軍が派遣された事を察知すると、事態が収まるまで予定された使者派遣を見送るなど”日和見”したため、主人公は武力併合を決める。
儒教に基づく統治体制から一種の鎖国政策を実施し、他国との交易を制限している。
主人公は前世知識から豊臣秀吉のような武力侵攻は考えていないが、対馬宗氏が朝鮮に従属の形をとって交易している事を知っており、問題視した。ただ、いたずらに禁止しただけでは解決しない事も理解しており、2回目の九州攻めの後に宗氏を筑後に移封して対馬を朽木家直轄地とした。
そして西笑承兌や宗氏の旧家臣で対朝鮮交渉に通じていた者を登用して、交易交渉を開始する。
この当時は悪名高い万暦帝の治世で、下海通蕃の禁は一部解除されているが、日本との交易はまだ禁止されている。
いまだ直接的な接触は行われておらず、主人公は明の冊封体制下にある琉球や朝鮮から間接的に関係を持つ事を考えており、自身が「日本国王」として冊封体制下に入ることには否定的。
スペインのこと(スペインは英式の呼び名)。
永禄十三年(1570年)頃に、呂宋などフィリピンを領有して植民地化した。(主人公が長島一向一揆攻略の準備をしていた時期)
日本で布教するイエズス会の事実上の後ろ盾であるが、かといってポルトガル系のイエズス会と仲が良い訳でもない(1580年から、スペイン王がポルトガル王を兼任)。
禎兆八年(1588年)、主人公が奥州制圧戦を行っていた最中に勃発した長崎のキリシタン一揆支援のため、イエズス会の要請で数は不明ながら兵とイスパニア船を派遣する。
この一揆は直ぐに鎮圧されイスパニア船も撃破されるが、この件でルソンへの侵攻を現実的に考えるようになり、その前段階として琉球攻めを決定する。

用語

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朽木谷
近江高島郡(現在の高島市)に属し、安曇川上流にある丹波高地東端の花折断層と比良山地に挟まれた谷底にある小盆地
若狭小浜から京都に通じる山間の谷を走る街道(鯖街道)に位置しており、昔から京都・若狭と繋がりがある。また高島郡の中心地は琵琶湖の湖畔にあり、朽木谷とは安曇川沿いの険しい谷道によって繋がる。そのため京都と直結していながら、周囲に対しては天然の要害の地となっている。
朽木氏
朽木家は、鎌倉時代から代々朽木谷を領有する豪族。
近江でも琵琶湖周辺からやや隔離された地理的な要因と、佐々木源氏庶流高島氏に属する事から、近江の守護勢力六角氏京極氏)とは距離を置き、六角氏に属している時期もあるが独立心が強い家である。
代々将軍の偏諱を受けるのが慣例化しており、曾祖父信濃守材秀は第10代将軍足利義材(後の義稙)から、祖父民部少輔稙綱も同じ足利義稙から、父の宮内少輔晴綱は第12代将軍足利義晴から、伯父の長門守藤綱と左衛門尉輝孝は第13代将軍足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けている。
また正妻を公家から迎える事も多く、高祖父貞綱は甘露寺家(幕府政所執事伊勢家の養女)、材秀は不明だが、続く稙綱は葉室家、晴綱が飛鳥井家となっている。
将軍家との関係は、(第11代将軍)足利義維との抗争に敗れた足利義晴を朽木谷に保護し、大永8年(享禄元年、1528年)から享禄4年(1531年)の2年半は朽木谷に幕府が置かれたほどで、稙綱は奉公衆から内談衆に加わり、特に幕府直臣としての意識が強い人物となる。
幕府が京に戻って以後も度々将軍が朽木を訪れる事があり、作中では主人公が生まれる少し前にも義稙が朽木に滞在していたことから、主人公に「将軍のご落胤」説が出る事になった、としている。

脚注

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編註

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出典

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外部リンク

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