海豹島
海豹島(かいひょうとう、露: Остров Тюлений チュレーニー島)は、樺太島の中東部、北知床半島の先端(北知床岬)より南西12kmに位置する無人島である。日本施政下においては樺太敷香郡散江村に所属していたが、現在はロシア連邦サハリン州ポロナイスク地区管下にある(当該地域の領有権に関しては樺太#領土問題の項目を参照)。
海豹島 | |
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キタオットセイの繁殖地 | |
所在海域 | オホーツク海 |
座標 | 北緯48度30分0秒 東経144度39分0秒 / 北緯48.50000度 東経144.65000度座標: 北緯48度30分0秒 東経144度39分0秒 / 北緯48.50000度 東経144.65000度 |
最高標高 | 18 m |
プロジェクト 地形 |
概要
編集島は長さ636m、幅100mに満たない小島で、標高18mの平坦絶壁をなす岩山とそれを囲む砂浜からなる。 海岸の砂浜にはキタオットセイやトドの繁殖地があり、周囲30海里(約56km)は自然保護区として船舶や航空機の接近が禁じられている。 ウミガラスをはじめとして多数の海鳥も生息している。
名称
編集海豹島の名はオランダ語名称Robbeneilandの直訳に由来し、ロシア語名称Остров Тюленийも同じである。オランダ語で単にRobbenといえばアザラシのことであるが、アシカをOorrobben(耳のあるアザラシの意)と呼ぶなど鰭脚類の動物一般を指す言葉でもある。これはヨーロッパの言語では珍しいことではなく、英語ではオットセイをfur seal(毛皮用のアザラシの意)と呼び、あるいはリンネはオットセイの学名をPhoca ursina(熊のようなアザラシの意)としたなどの例が挙げられる。したがってこの島をRobbenと名付けたのはオットセイに由来すると考えられ、それを海豹(アザラシ)と翻訳したのはある種の誤訳といえる。
松浦武四郎の『実験北蝦夷山川地理取調図』では「レフンモシリ」として記載されており[1]、また明治初期の絵図では「アトヤモシリ」として記されている[2]。アイヌ語で「レプン・モシㇼ」は「沖の島」、「アトゥイ・ヤ・モシㇼ」は「海の網漁の島」をそれぞれ意味する。
歴史
編集- 1643年 - オランダの航海家マルチン・ゲルリッツエン・フリースが発見。Robbe Eylantと名付ける。
- 1852年 - アメリカ合衆国の捕鯨家Guarden Allynが立ち寄る。以来オットセイの乱獲地となった。
- 1905年7月 - 日露戦争終盤の樺太攻略作戦により日本軍が占領。
- 1905年9月5日 - ポーツマス条約締結によりロシアより日本へ割譲される。
- 1906年6~11月 - 樺太民政署の出張員による観測[3]。
- 1907年4月25日 - 樺太海豹島ニ於ケル臘虎及膃肭獣猟獲禁止ノ件(明治40年勅令第157号)によりラッコ・オットセイの捕獲が禁止される。
- 1945年7月2日 - アメリカ潜水艦「バーブ」が島を攻撃。それにより、5名が死亡し、1名が重傷(のち死亡)を負っている[4]。
- 1969年 - 海鳥のダニ媒介性ウイルスであるチュレーニーウイルス(Tyuleniy virus)の発見。[5]
参考文献
編集- ^ “実験北蝦夷/山川地理取調図 七”. 函館市中央図書館デジタル資料館室. 2016年8月25日閲覧。
- ^ “北蝦夷敷香ヨリ真尻床迄絵図”. 北海道大学附属図書館北方資料室. 2014年1月2日閲覧。
- ^ 『海豹島出張員復命書』樺太民政署、1907年。NDLJP:767177。
- ^ 樺太終戦史刊行会(編)『樺太終戦史』全国樺太連盟、1973年、200ページ
- ^ Lvov et al. (1971). “Tuleniy virus. A new Group B arbovirus isolated from Ixodes (Ceratixodes) putus Pick.-Camb. 1878 collected on Tuleniy Island, Sea of Okhotsk”. Am J Trop Med Hyg 20 (3): 456-460. PMID 5088394.