浅野 長直(あさの ながなお)は、江戸時代前期の外様大名常陸国笠間藩主、播磨国赤穂藩初代藩主。官位従五位下内匠頭

 
浅野長直
浅野長直像(花岳寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長15年(1610年
死没 寛文12年7月24日1672年9月15日
改名 又一郎、長直
墓所 兵庫県赤穂市花岳寺
官位 従五位下内匠頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
常陸笠間藩主、播磨赤穂藩
氏族 浅野氏
父母 浅野長重徳川家康養女
兄弟 長直浅野長治正室、松平忠氏室ら
丹羽長重
長友、鶴姫、長賢長恒松平定逸
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生涯

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慶長15年(1610年)、下野国真岡藩主(のちに常陸国笠間藩主)である浅野長重浅野長政の三男、広島浅野家の傍流の一つ)の長男として誕生[1]。幼名は又一郎。

寛永8年(1631年)12月3日、従五位下内匠頭に叙任された。寛永9年(1632年)10月29日、父の跡を継いで笠間藩主となる。

寛永11年(1634年)には幕府より駿府城城代に任じられ、寛永13年(1636年)には江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番を命じられた。同年11月、朝鮮通信使の来聘につき、相模大磯にて饗応を担当する。寛永20年(1643年)にも、朝鮮通信使を下野今市に於いて饗応を勤めている[2]

寛永18年1月29日(1641年3月10日)、江戸京橋桶町から発生した大火災(桶町の大火)は、江戸市中の消火防災体制が未熟だったために大被害をもたらした。幕閣は対策を講じるために、「奉書火消」の長直ら6人を招いて相談させ、2年後の寛永20年(1643年)に「大名火消」の制度が生まれた。 また、江戸において赤穂藩は大名火消としても評判が高かった。『松雲公御夜話』には長直自らが陣頭指揮を執り、延焼を防いだ逸話が記されている[3]

同18年(1641年)には寛永の大火で焼失した泉岳寺を、幕命により御手伝い普請でほかの四大名と共に再建させ、菩提寺とした[4]

大坂在番中の正保2年(1645年)、赤穂藩主の池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件が起こり、池田家改易となった(正保赤穂事件)[5]。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。

慶安2年(1649年)から赤穂城築城工事を開始し、寛文元年(1661年)に完成させた。城下の整備も進められ、上水道の設備などがおこなわれた。さらに姫路から浜人・浜子を入植させ、塩業村を興し、赤穂塩の経営を始めた。次いで、塩水濃縮法による入浜塩田法を導入して大量増産をはかり、やがて赤穂塩は日本全国の塩の7%のシェアを占めるようになる。この入浜塩田法は、赤穂のみならず瀬戸内の諸藩の塩田に伝わっていった。

慶安3年(1650年)、浅野家お預かりの大久保数馬・水谷山三郎の両名、喧嘩して双方絶命した。江戸へ注進し検使が派遣され、死骸取捨の奉書(松平信綱阿部重次連署)が発給された(慶安赤穂事件)。

 
浅野長直之墓(花岳寺

また承応元年(1652年)から9年弱、山鹿素行を1,000石の高禄で赤穂へ招いた(ただし素行は、赤穂に7か月程度しか滞在せず江戸に戻っている[6])。 素行は承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている[7]

万治元年(1660年)に素行は、浅野候からの処遇に不満があり自分から致仕し去る[8]。 また、「長直は不要な家臣を二百人余も雇い、藩財政を圧迫し高年貢にて領民を苦しめた[9]。しきたりや慣習にこだわらず、そしりを受けた」との批判も書き残している。 寛文5年(1665年)に山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪にされたときも、お預かりを担当している。

寛文10年(1670年)、中風を発し半身不随・言語不明瞭の状態となる。 翌11年(1671年)に長男長友に家督を譲り、翌年(1672年)7月24日に死去した。享年63。戒名は久岳院殿前朝散大夫行少府僚湖山常済大居士。墓所は赤穂の花岳寺。江戸における菩提寺である泉岳寺にも墓がある。

系譜

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脚注

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 26頁。
  2. ^ 『久岳君御伝記』第一
  3. ^ 池上彰彦 著「江戸火消制度の成立と展開」、西山松之助 編『江戸町人の研究』 第5、吉川弘文館、1978年、163頁。 
  4. ^ 泉岳寺の歴史”. 泉岳寺公式サイト. 2022年5月13日閲覧。
  5. ^ 「妻(黒田筑前守長政女)を切殺し、をのが女(側室)に手負せ、侍女両人をも切て捨たりしかば、けふ所領を収公あり」(『徳川實紀 第三篇 第四十巻』)
  6. ^ 1653年9月25日-翌5月5日。
  7. ^ 「Web版(兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako-)」赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料”. 赤穂市教育委員会. 2022年5月12日閲覧。
  8. ^ 「内匠頭所に九年此れ有り、加増まで申し被可り候由、利禄の望みにて御留め候え共、知行断り申し上げ候」(山鹿素行『配所残筆』)
  9. ^ 赤穂藩は六公四民。『土芥寇讎記』巻二十巻・第五項(東京大学史料編纂室)