塩田

塩を海水の蒸発によって取り出すための土地

塩田(えんでん)は、大量の海水から水分蒸発させ、だけを取り出すために用いられる場所および施設。狭義には後述の天日塩田を指すが、この項では海水を用いた製塩技術全般について記述する。

インド、タミル・ナードゥ州の塩田で塩を採取している様子

概要

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塩湖あるいは塩沼塩鉱といった天然の塩結晶に恵まれない地域では、海水を何らかのエネルギーで加熱して製塩する必要がある。

海水を利用した製塩には、大きく分けて2種類ある。太陽光の熱のみによって塩の結晶を生産する天日採塩法(てんぴさいえんほう)と、海水を何らかの装置で濃縮して鹹水(かんすい)を生成し、それを火で加熱して結晶を得る煎熬採塩法(せんごうさいえんほう)である。前者は後者に比べて効率的な生産方法であるが、採塩施設を降水量の極めて少ない地域に設ける必要がある。

世界の塩の生産量は2008年で2億650万トンといわれており、そのうち天日塩が約36%である[1]

天日採塩法(天日塩田)

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レ島 (Ile de Ré)(フランス)の塩田
 
サンフランシスコ湾の塩田。塩分が高くなると高度好塩菌が優勢になり赤色になる。

海水・塩湖などの塩分を含んだ水(鹹水)から太陽熱で水分を蒸発、濃縮して結晶化した塩を作るものを天日塩田という。太陽熱に依存するため、雨や曇りの多い気候には不向きとなる。

メキシコオーストラリア西部など、砂漠海岸が接する地帯に設けられることが典型的であり、メキシコのゲレロネグロに世界最大のものがある。

ほかに、アメリカユタ州グレートソルト湖のように、塩湖を利用したものもある。同湖では、海水の7倍という濃さの湖水を導き入れ、太陽光の吸収量を増すための青緑色の色素を加えた上で天日で蒸発させている。

工業塩の生産はこのような塩田・塩湖による方法が多い。なお日本の工業塩の年間需要は約740万トンであり全量を輸入している。[1]

なお、塩田・塩湖でデュナリエラ・サリナという緑藻の一種が大発生すると藻がカロテノイドを大量に産出し、水面が褐色系のオレンジ色に染まることがある。また、高度好塩古細菌が産出するバクテリオベルリンやバクテリオロドプシンによりピンク色になる場合もある。

製造法

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複数の大きな濃縮池(別名:蒸発池)と直列に並んだ小さな結晶池からなる。結晶池の手前の濃縮池は、調節池という[2]。各池は入り口と出口が水門で制御されており、重力による自然落差かポンプで徐々に結晶池の方へと移動する。塩分の高い鹹水から作る場合は、濃縮池は少なくなる。

濃縮池を複数作る理由は、純度の高い塩を作るためである。海水を濃縮すると、酸化鉄がまず析出し、炭酸カルシウム、大量の硫酸カルシウム、「塩化ナトリウム)」、硫酸マグネシウム塩化カリウム塩化マグネシウムの順に析出する[3]

そのため、濃縮池で大量の硫酸カルシウムを析出させた後に、結晶池で「」を析出させ、残った硫酸マグネシウムなどの不純物が多い元鹹水(にがりとして利用可能)を排水すれば、高純度の塩が得られることになる[3][2]

結晶池で塩が堆積した後は収穫機(採塩機)等で水平に塩の層を削り取り採塩する[3]

煎熬採塩法(採鹹塩田)

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鹹水を生成するための塩田を採鹹(さいかん)塩田という。歴史的には中国、ヨーロッパなどで行われたことが知られている。

日本の製塩法の歴史

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日本の塩田は、歴史上すべてが前述の採鹹をおこなうためのもので、煎熬(せんごう。煮詰めること)して塩を得るための釜があわせて設置された。海岸に設けられたこれらの施設は、古くは「塩浜」と呼ばれた。日本語における「塩田」という言葉は、明治以降、登記上の地目として塩浜を「塩田」といったことに始まる。

成立期には、日照時間が比較的長い地域(瀬戸内地方能登半島など)で大きく発達した。古くは農家の余暇の副業として自家労働によって行われ、煮詰め用の製塩釜は多くは共同使用であった。次第に需要が拡大し、事業規模が大きくなってくると、製塩は専業化し、やがて一軒前とよばれる一貫生産体制を導入する大手業者が出現した。そのような業者のもとでは、「釜屋」という鹹水を煮詰めるための専門施設が塩戸(作業単位)ごとに1戸付属した。

技術の進歩にもかかわらず、気温が低く日照時間の短い冬場などにおける大量生産は長らく困難であったが、枝条架装置(後述)の開発によって天候や季節、自然現象などにある程度は左右されなくなった。1970年代からは、イオン交換膜を用いた電気機械による製塩が主流になり、現在に至る。

塩田以前の製法

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諸説あるが、出土品や文献から西暦400年ころから平安時代西暦1100年頃)までは、乾燥した海藻の表面の塩分を土器にくりかえし洗い出して(または、焼いた海藻の灰を海水に溶かして布で濾過し)鹹水をつくり、火で焚いて濃縮する方法が用いられていたと推定されている。

揚浜式塩田

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揚浜式塩田の例(石川県珠洲市

「藻塩焼」の時代を経て、塩の需要が増大するに従い、海水中の塩分が付着した海浜の砂を採鹹作業に利用する製塩法が発達した。

「塗浜」と呼ばれる、盛土の上に、海水が地中に染み込まないように厚さ10cmほどの粘土など[注釈 1]で堅い防水層を形成し、その上に粒子の細かい砂(塩砂)を敷き詰める。塩砂の上に海水を丁寧にまき、頻繁にかき混ぜながら、天日と風により充分に水分を蒸発させたあと、塩砂をかき集めて海水で洗うことで鹹水を作り、それを製塩釜で煮詰めて結晶を得る。

1塩戸分の塩田面積は平均して1反歩(約990平方メートル)前後が通例であった。

石川県の文化財として保存されている。

入浜式塩田

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入浜式塩田の例(うたづ臨海公園内の復元塩田)

江戸時代前期頃、海水を塩田に取り込む方法として、潮の干満を利用する方法が開発された(装置やプロセスは揚浜式と共通している)。これにより海水を塩砂に散布する作業が省略され、大幅な労力の軽減が実現した。

塩砂の地盤は従来の海岸砂地を平坦にしただけのものもあったが、砂の層を底から目の粗い順に3層前後敷いた人工地盤も用いられるようになった。

瀬戸内海沿岸ではいち早くこの方式を導入し、律令国のうち瀬戸内地方に当たる播磨備前備中備後安芸周防長門阿波讃岐伊予、計10国の塩田は「十州塩田」と総称された。これらの地域で生産された「十州塩」は品質が高いと評価され、上方江戸を含めた全国各地の市場を席巻した。

この方式の導入は干満の潮位差が大きな地域に限られ、土地が海面よりもやや高く、潮汐を利用して海水を塩田に引き入れるのが困難な土地では、従来の揚浜式塩田が残った。

入浜式塩田が導入された時期には、1塩戸の大きさは平均2町歩(約2ヘクタール)前後に拡大した。

塩田は15~16メートル×約200メートルの矩形の周囲を浜みぞでかこったものである。それぞれ15メートル四方に沼井(ぬい・一種のろ過装置)が設けられる。

遠浅の干潟を干拓し、その砂地を平坦にする。満潮の時に海水を塩田の潮まわしと溝渠に入れ、砂の間隙に浸潤させる。日光と風力で水分を蒸発させ、その一方で、作業員がで砂を反転させ、十分に着塩させ、2、3日間天日にさらす。着塩した散砂を沼井(ぬい)に入れ、海水を注いで濾過させることで海水の5~6倍の濃度の鹹水を得る。

流下式塩田

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流下式塩田の例(赤穂市立海洋科学館の復元塩田の枝条架)

塩砂の代わりに立体的な枝状の装置(枝条架 しじょうか)を利用して鹹水を作る方式。イオン交換膜製塩法が導入されるまでは、近代における製塩方法の主流だった。

ドイツでは、グラディアヴェルクと呼ばれる。日本に導入されたのは、昭和20年代後半のことである[4]。枝条架併設型の流下式塩田の生産効率は高く、過剰生産になったことから、昭和36年には塩業整備で計画的塩田廃止が行われ[5]、その後も昭46年の『塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法』などで塩田の廃止と近代化がすすめられた[6]

日本の塩は1905年(明治38年)から専売制となり、塩の生産量や生産方法は政府によって定められるようになった。流下式塩田は大量の塩需要に対応するために1950年代までに開発され、採用された方式である。

ポンプを利用して海水を1日1ヘクタール当たり60~150キロリットル汲み上げ、コンクリートやビニールで防水された緩やかな斜面(蒸発層。長さ20~40メートル、こう配は100分の1~150分の1)に海水を秒速1~2センチメートルで流し(海水の偏流を防ぐために幅約2メートルごとに仕切りがある)に流しながら日光に当てることで水分を蒸発させ、塩分濃度を高める。1回では濃度上昇が高くないので、2~3回繰り返す。海水を枝条架の上へと散布する。枝条架は竹や細いビニール管をまとめてホウキのような枝状にし、幾層にも集めて棚にまとめたもの。これに付着した海水に天日および風を当て、水分を蒸発させ、脚部の鹹水槽に貯める。これを再度汲み上げて枝条架に散布し、同様に鹹水槽に貯める、という作業を繰り返し、一定の濃度に達したら、鹹水を煮詰めて製塩する。

枝条架の考案によって、塩砂をかき混ぜる作業の必要がなくなり、労力が軽減されるとともに、生産性が著しく向上した。また太陽光に加えて風による水分蒸発が可能になったため、比較的日照時間の短い季節や地域においても、一定量の塩の生産が可能になった。

塩田の終焉

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1972年(昭和47年)以降、日本の製塩法はイオン交換膜と電力を利用して鹹水を作り、真空式蒸発缶で煮つめる方法が公式に採用されることになった。天候に左右され、多くの労力や大きな面積を占めるこれまでの塩田は不要となり、日本の塩田は事実上全廃されるに至った[注釈 2]

著名な塩田

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日本各地の観光化された塩田施設

産業施設としての塩田は日本各地で姿を消したが、現在では社会教育施設として塩田が復元され、体験教育などで活用されている例がある。

  • 石川県珠洲市仁江町の揚浜式塩田による製塩は[7]、国指定の重要無形民俗文化財に指定されている。同地では観光客が製塩を体験できるイベントが毎年夏に開催されている。
  • 愛知県知多郡美浜町の「食と健康の館」には、観光施設としての流下式塩田があり、製塩を体験できる。
  • 兵庫県赤穂市の塩田跡を整備した兵庫県立赤穂海浜公園内の「塩の国」には、流下式、揚浜式、入浜式の塩田と製塩作業所一式が復元されている。
  • 山口県防府市三田尻塩田記念産業公園には、入浜式塩田が復元されており、製塩工程の一部を体験できるほか、毎年10月には同地で「塩田まつり」が開催される。
  • 香川県綾歌郡宇多津町の「うたづ臨海公園」には、入浜式の復元塩田(ただし復元後はポンプによる入排水)があるほか、塩田に関しての資料を展示する宇多津町産業資料館が隣接している。
  • 伯方塩業は、2010年に愛媛県今治市の大三島工場の隣接地に流下式塩田を復活させた[8]。事前予約による見学が可能。
  • 沖縄県名護市屋我地島では、1960年代を最後に製塩が途絶えていたが、2007年に地元有志により再興された[9]
日本以外

その他

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脚注

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注釈

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  1. ^ 現代ではビニールシートで代用されている。
  2. ^ イオン交換膜は、マグネシウムカルシウムカリウムなどの塩の味をつかさどる有用なイオンは通すが、PCBのような化合物や重金属などの大きな分子は通さないため、ある程度汚れた海水からでも、有害物質を濃縮しない、優れた品質の塩が生産できる、という製塩に都合のよい性質も持っていた。
  3. ^ 「塩」の付く地名でも、内陸に位置する塩尻市の「塩尻」は塩の輸送・運搬に関係する地点が由来であり、また「塩原」には山あいの地形に由来したものもある(塩原温泉郷など)。 「第14回 山間に多い塩地名 ― 塩原(しおばら)」 (日本歴史地名大系ジャーナル)

出典

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  1. ^ a b 『15509の化学商品』化学工業日報社、2009年2月。ISBN 978-4-87326-544-5 
  2. ^ a b 村上正祥、「精製塩の製造工程における塩類の析出」 『日本海水学会誌』 1993年 47巻 6号 p.375-378, doi:10.11457/swsj1965.47.375, 日本海水学会
  3. ^ a b c Frank Osborn Wood, 増沢力、「米国における塩産業」 『日本海水学会誌』 1981年 34巻 5号 p.327-332, doi:10.11457/swsj1965.34.327
  4. ^ たばこと塩の博物館”. たばこと塩の博物館. 2024年11月8日閲覧。
  5. ^ 尾上, 薫「創立60周年に向けての学会の取り組みについて」2011年、doi:10.11457/swsj.65.315 
  6. ^ 法律第四十七号(昭四六・四・一六)”. www.shugiin.go.jp. 2024年11月8日閲覧。
  7. ^ 北陸見聞録 道の駅「すず塩田村」で塩づくり体験 - YouTube(朝日新聞社提供、2017年5月30日公開)
  8. ^ 11/1 大三島工場に流下式塩田-大三島塩田がオープン!伯方塩業ウェブサイト
  9. ^ 屋我地マース

関連項目

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外部リンク

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