津田重久
津田 重久(つだ しげひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は与三郎。官位は従五位下・遠江守。剃髪後は道供と号した。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文18年(1549年) |
死没 | 寛永11年(1634年) |
改名 | 牧之助(幼名)、重久、道供(号) |
別名 | 与三郎(通称) |
戒名 |
自照院殿養安道供大居士[1] 自照院養安道供居士[2] |
墓所 | 石川県金沢市広岡の養雲山放生寺 |
官位 | 従五位下・遠江守 |
主君 | 三好氏→細川昭元→三淵藤英→足利義昭→明智光秀→豊臣秀吉→秀次→浪人→前田利長→利常→光高 |
藩 | 加賀藩 |
氏族 | 津田氏 |
父母 | 父:津田高重、母:高畠与十郎娘 |
兄弟 | 兵庫、重久 |
妻 | 一志西庵娘 |
子 | 女子(某為三妻)、平蔵、女子(某宗意妻)、重次、重以、女子、重昌、四郎兵衛、女子(加藤石見妻)、女子(篠島豊前妻)、女子、与右衛門、福 |
生涯
編集前半生
編集天文18年(1549年)、山城国伏見(現在の京都府京都市伏見区)にて津田高重の次男として誕生する。津田氏は平清盛の末裔と称する一族で、祖父・元重と父・高重は管領細川氏(細川京兆家)に属して活躍した[3]。
永禄以降、重久は三好氏、細川氏、三淵氏に[3]、天正の初め足利義昭に仕えた後、天正5年(1577年)に明智光秀の家臣となる。また、この頃既に一騎当千の剛の者として知られていた[4]。
天正10年(1582年)の本能寺の変では明智軍の先鋒となって本能寺を襲撃した。その後、光秀に従って安土城に入城し、光秀より織田信長が蒐集していた長光の太刀を与えられている[3]。山崎の戦いでは左備えの大将として2,000人を率いて戦うが、光秀が敗れると高野山に逃れた。その後、羽柴秀吉に召し出されて尾藤知宣の付属となり、翌天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げて1,200石を与えられた[3]。
天正15年(1587年)の九州征伐では知宣に従って筑紫に赴き、知宣を害そうとした大崎某を討ち取っている。後に知宣が改易されると豊臣秀次の家臣となり、文禄3年(1594年)8月、秀次の奏請によって従五位下・遠江守に叙任された[注 1]。
前田家に仕える
編集翌文禄4年(1595年)に秀次が自害すると、重久は浪人となり京都に閑居した。その武勇を惜しんだ伊達政宗・細川藤孝・福島正則から仕官の誘いを受けるが、翌文禄5年(1596年)、奥村永福・横山長知を介して前田利長に召し出され、4,000俵でその家臣となった[4]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である大聖寺城の戦いでは西軍に与した山口宗永が籠もる大聖寺城を攻撃し、首1つを挙げた。この戦いで重久は利長の使いとして前田軍の先鋒に向かう際に鉄砲で太股を撃ち抜かれるが、落馬せず役目を果たしたという[3]。
慶長8年(1603年)には大聖寺城の城代に任ぜられるが、慶長15年(1610年)に致仕した。長男の平蔵は病気がちであったため、家督は次男の重次が継いだ[4]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では前田利常の参謀を務め、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では大聖寺城の留守を守った。晩年は利常・光高の御咄衆を務め、自身の戦功談を語ったという[3][4]。
寛永11年(1634年)、86歳の長寿をもって死去した。その後、重次は大坂の陣での戦功により10,000石を食む大身となるが、寛永18年(1641年)にキリシタンであるという噂を立てられて江戸の湯島・本郷に蟄居し、慶安4年(1651年)4月4日に死去した[4]。また、三男の重以は別家を興して300石で利長に仕えるが、後に3,000石まで禄を増やして人持組に列し、四男の四郎兵衛は大聖寺藩士に、五男の与右衛門は富山藩士となった[4]。
人物・逸話
編集- 重久は膂力衆に優れ、 生涯に渡って敵将6人を斬り、兜首を挙げること22級、感状を3通得たという[4]。
- 山崎の戦いの後、高野山に隠れ潜んでいた重久は秀吉が明智の旧臣を赦免する触れを出したことを聞くと、降参を装って秀吉を討ち取ろうと目論んだ。その後、秀吉の本営に訪れて対面を願い出るも中々秀吉は現れず、重久が少し退屈しかけたとき、突然現れた秀吉が「与三。たっしゃか」と声をかけ、そして楽々と近寄ると杖で重久の首を押さえて「その方は参ってよかった、参らねばこの首が危うかったぞ。一隊の采配をふるったその方ゆえ、隠れても必ずや探して討つ。訪ねて参ったゆえに免じておくぞ」と告げた。これには重久も骨も筋も綿のようになってしまい、「よしよし、生かせば役にたつその方じゃ、秀吉に奉公、武功を励め」という一言で遂に平伏した。老後、重久は子どもたちに「秀吉という人は天から授かった英雄じゃ、勇士も猛将もあの威風には及びもつかぬ。一生の間にわしは、あの時ほど、気のくじけたことはない」と語ったという[5]。