油ヶ淵
油ヶ淵(あぶらがふち)は、愛知県碧南市と安城市の境にある湖沼。愛知県唯一の天然湖沼である[2]。二級河川に指定されている。
油ヶ淵 | |
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所在地 | 愛知県碧南市見合町1丁目 |
位置 | 北緯34度54分16.63秒 東経137度0分47.02秒 / 北緯34.9046194度 東経137.0130611度座標: 北緯34度54分16.63秒 東経137度0分47.02秒 / 北緯34.9046194度 東経137.0130611度 |
面積 | 0.64 km2 |
周囲長 | 6.3 km |
最大水深 | 5[1] m |
平均水深 | 3 m |
水面の標高 | 1[1] m |
成因 | 不明[1] |
淡水・汽水 | 汽水[1] |
湖沼型 | 富栄養湖[1] |
プロジェクト 地形 |
名称
編集「油ヶ淵」の名前は、かつて内海だった油ヶ淵の湖畔(碧南市油渕町)に住んでいた母子の伝説(息子の漁の安全を祈る母のために、淵の主である龍が娘の姿に化け、油を買いに来て岬を照らしたという伝説)に基づく[3]。
地理
編集周囲6.3 km、面積0.64 km2、平均水深は3 m。海水と淡水の混じり合った汽水湖である[2]。流入河川には長田川、半場川、朝鮮川、稗田川があり、高浜川および新川を通じて衣浦湾へ流出している[2]。湖畔(碧南市側)には油ヶ淵に接していることに由来した「油渕町」という地名がある[4]。
周辺には日本モーターボート選手会常設訓練所・勤労青少年水上スポーツセンターや油ヶ渕遊園地(花しょうぶ園)がある。
ギャラリー
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安城市東端町
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油ヶ渕遊園地(花しょうぶ園)
歴史
編集油ヶ淵の成立
編集現在の油ヶ淵一帯はかつて、洪積台地の開析谷に連なる溺れ谷で[5]、「北浦」と呼ばれる[2]入り江になっていた[5]。
1605年(慶長10年)に本多康俊(西尾城主)が幕命を受け、米津清右衛門を奉行として[5]、矢作新川の開削を行う[2]。木戸(安城市)から米津(現在の西尾市)の間に新たな堀割(長さ12町・幅20間・深さ8間)が築かれたが、矢作川上流から流れる土砂が南の入海を埋めるようになり、鷲塚は半島に変わった[5]。また、湖面は矢作川の河床より低いことから、沿岸に洪水被害が相次ぐようになったため、江戸幕府は1644年(正保元年)に米津 - 鷲塚間に堤防を築き[2]、入海の一部を切断する形で油ヶ淵が誕生した[5]。
排水路の開削
編集しかしその後、長田川や稗田川などの水が油ヶ淵に注ぐようになり、沿岸の村々が大雨の際に浸水被害を受けるようになったため[2]、江戸の商人である伏見屋又兵衛が新たな排水路建設を行い、油ヶ淵の周囲と矢作川沿いに新田(伏見屋新田)を築いたほか、1701年(元禄14年)に大浜村千福で排水する新しい水路を計画[5]。1704年(宝永元年)までに現在の蜆川・新川に相当する排水路が建設された[2]。
1908年(明治41年)には油ヶ淵を水源とする平和用水が完成し、1975年(昭和50年)まで農業用水として用いられた。豪雨時に沿岸の水田への冠水被害が続いたため[2]、1935年(昭和10年)には新たな開削工事により、高浜川が完成した[5]。1967年(昭和42年)以降は総合遊園地として整備が進み、釣り場・花ショウブ園などが設けられた[4]。
公園の整備
編集高度経済成長期には工業排水や生活排水により汚濁が進み、東海地方では佐鳴湖(静岡県浜松市)と並んで汚い湖沼とされた。その後は近隣自治体により浄化が進められるとともに、県営都市公園の油ヶ淵水辺公園として整備された。
脚注
編集- ^ a b c d e “日本の自然環境 > 26.湖沼概要と改変状況”. 生物多様性センター. 環境省 自然環境局 (1982年3月). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “油ヶ淵について”. 油ヶ淵電子図書館. 2021年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月9日閲覧。
- ^ “油ヶ淵水辺公園 パンフレット”. 愛知県. 2021年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月9日閲覧。
- ^ a b 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 198, p. 112.
- ^ a b c d e f g 平凡社 1981, p. 633.
参考文献
編集- 『愛知県の地名』 23巻(初版第一刷)、平凡社〈日本歴史地名大系〉、1981年11月30日、640頁。ISBN 978-4582490237。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三 編『愛知県』角川書店〈角川日本地名大辞典〉、1989年3月8日。ISBN 978-4040012308。