池田種徳
日本の藩士・浪士組取締役、内政官僚
池田 種徳(いけだ たねのり、1831年〈天保2年10月〉 - 1874年〈明治7年〉9月12日[1])は、幕末の広島藩士・浪士組取締役、明治期の内政官僚。権令。通称・徳太郎[2]、雅号・快堂[1]。
経歴
編集安芸国豊田郡忠海村(現広島県竹原市)で、医師・池田元琳の長男として生まれる[1][3]。医術より儒学を好み、九州に遊学し広瀬淡窓、筑前の亀井陽州(革卿)・調黄溪らに学んだ[4]。その後、江戸に遊学。清河八郎、伊牟田尚平、安積五郎、村上俊平などの志士と交わり、幕府の嫌疑を受け一時、獄に入れられた[4]。文久3年(1863年)、徳川家茂の上洛を警護する浪士組取締役となる[3]。幕府に攘夷の意思がないことを悟って浪士組を脱し、広島藩の加藤七郎兵衛、船越洋之助(船越衛)に匿われた[4]。元治元年9月(1864年10月)広島藩士となり国事に奔走した[1]。
王政復古後、慶応4年7月(1868年)、徴士軍務官権判事に就任。戊辰戦争に東北遊撃軍将副参謀、同参謀として転戦した[1]。明治元年12月(1869年)、権弁事、同月、常陸知県事、明治2年2月(1869年)、若森県権知事、明治4年11月(1871年)、新治県権令と地方官を歴任。明治5年1月20日(1872年2月28日)、島根県権令に就任。同年9月27日(10月29日)、岩手県参事に転任[5]。1874年2月、青森県権令に就任。しかし病のため東京で療養するが在任中に死去した[4][6]。