永井八津次
永井 八津次(ながい やつじ、1901年(明治34年)1月20日[1][2] - 1970年(昭和45年)8月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
永井 八津次 | |
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1951年 | |
生誕 |
1901年(明治34年)1月20日 日本 茨城県 |
死没 | 1970年(昭和45年)8月15日 |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1921 - 1945 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴
編集茨城県出身[1][2][3]。永井弥八郎の五男として生まれる[1]。水戸中学校、陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業[1][2][3]。同年10月、歩兵少尉に任官し歩兵第25連隊付となる[1][3]。陸士生徒隊付などを経て、1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し歩兵第25連隊中隊長に就任[1][2][3]。
1932年(昭和7年)12月、陸軍省軍務局付勤務となる[1]。以後、軍務局課員、参謀本部付仰付(中国駐在)などを経て、1936年(昭和11年)8月、歩兵少佐に昇進し関東軍司令部付に就任[1]。関東軍参謀を経て、1938年(昭和13年)7月、歩兵中佐に進級し軍務局課員(軍務課)となる[1]。1941年(昭和16年)3月、陸軍大佐に進級し軍務局付となり、同月から4月まで松岡洋右外相随員として欧州に出張した[1]。同年6月、支那派遣軍参謀(第4課長)に転じ日中戦争に出征した[1][2][3]。
1943年(昭和18年)7月、参謀本部謀略課長に異動[1][2][3]。参謀本部員(大本営第4班長)を経て、1945年(昭和20年)2月、軍務課長に就任し、同年3月、陸軍少将に進んだ[1][2][3]。同年5月、火傷の重傷を負い同年8月まで入院した[1][2]。1945年8月、東部軍司令部付に発令された[1][2][3]。同年9月2日朝、米海軍「戦艦ミズーリ」艦上で行われた降伏文書調印式に日本側全権団で参加。同年12月、予備役に編入となり、同月から1946年(昭和21年)4月まで第一復員省および復員庁第一復員局の資料課長を務めた[1]。
親族
編集著書
編集- 『新秩序建設の拠点たる満洲国』日満中央協会、1939年。