毛利元矩
毛利 元矩(もうり もとのり)は、江戸時代中期の大名。長門国長府藩5代藩主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永元年1月23日(1704年2月27日) |
死没 | 享保3年3月20日(1718年4月20日) |
改名 | 仁八郎、元矩 |
戒名 | 玄隆院殿道聡徳融大居士 |
墓所 |
東京都港区高輪の泉岳寺 山口県下関市長府の功山寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家宣、家継、吉宗 |
藩 | 長門長府藩主 |
氏族 | 那波氏、毛利氏 |
父母 | 毛利綱元、貞性院 |
兄弟 | 吉元、本多忠次、匡以、元矩、真寿院 |
略歴
編集3代藩主・毛利綱元の四男として江戸にて誕生。幼名は仁八郎。初め氏姓を那波、後に毛利に復す。
始め那波姓を称したのは、先祖大江広元の三男政広(宗元)が上野国那波郡の地頭となり那波氏を称したことに由来し、末子であるので毛利を称するのを遠慮したためである。
正徳2年(1712年)10月23日、甥で先代藩主の毛利元朝(長兄・吉元の長男、すなわち甥であるが元矩より1年年長)が毛利元陳の死去を受けて、本家・長州藩の世子になったため、元矩が養嗣子として長府藩の家督を継いだ。しかし享保3年(1718年)3月20日、15歳で江戸にて早世する。嗣子はなく、跡を支藩の長門清末藩主だった匡広が継いだ。
法号は玄隆院殿道聡徳融大居士。墓所は山口県下関市長府の功山寺[1]、東京都港区高輪の泉岳寺のちに豊功社[注釈 1][2]。
系譜
編集- 父:毛利綱元(1651-1709)
- 母:貞性院
- 正室:なし