盤具母禮
蝦夷の族長
(母礼から転送)
盤具母禮(いわぐ の もれ、生年不詳 - 延暦21年8月13日(ユリウス暦802年9月17日))は、古代東北地方の人物。姓は公。大墓公阿弖利爲と同時期に蝦夷(えみし)の族長の1人であったとみられている。
生涯
編集延暦21年4月15日(ユリウス暦802年5月19日)、盤具公母禮は大墓公阿弖利爲とともに、種類500余人を率いて造胆沢城使・坂上田村麻呂の下に降伏した[原 1][原 2][注 1][1][2]。盤具公母禮の名前が史料にはじめてみえ、蝦夷の族長であったと思われるが、盤具公氏がどこを本拠地としていたかなどは不明である[2]。
延暦21年7月10日(ユリウス暦802年8月11日)、田村麻呂にともなわれて阿弖利爲とともに平安京に向かう[原 3][3][2]。「田村麻呂来たる」とのみあることから、平安京へと「入京」したとは考えられていない。
延暦21年8月13日(ユリウス暦802年9月17日)、田村麻呂は「この度は願いに任せて返入せしめ、其の賊類を招かん」と申したが、公卿は執論して「野生獣心にして、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りてこの梟帥を獲たり。もし申請に依り、奥地に放還すれば、いわゆる虎を養いて患いを残すなり」と申し、公卿の意見が取り入れられたため捉えられ、母禮は河内国椙山にて阿弖利爲とともに斬られた[原 4][3][4]。
年表
編集和暦 | 西暦 | 日付 (旧暦) |
内容 | 出典 |
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延暦21年 | 802年 | 4月15日 | 夷大墓公阿弖利爲と種類500余人を率いて坂上田村麻呂に降伏した | 類聚国史 日本紀略 |
延暦21年 | 802年 | 7月10日 | 坂上田村麻呂に伴われて平安京付近に至った[注 2] | 日本紀略 |
延暦21年 | 802年 | 8月13日 | 河内国椙山で斬られた[注 3] | 日本紀略 |
関連資料
編集- 盤具公母禮が記録される資料
登場作品
編集- テレビドラマ
脚注
編集原典
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年7月1日。ISBN 4-642-05045-0。
- 樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選 126〉、2013年10月10日。ISBN 978-4-623-06699-5。