櫛田北渚
江戸時代、明治時代の儒学者
櫛田 北渚(くしだ ほくしょ、文化12年10月22日(1815年11月22日)- 明治5年4月4日(1872年5月10日))は、江戸時代、明治時代の儒学者[1]、漢学者、教育者。福岡藩藩儒。名は駿。字(あざな)は千里。通称は駿平。号は北渚、北渚陳人[2]。
経歴
編集福岡藩の儒学者櫛田琴山の子孫として、筑前国に生まれる。江戸で古賀侗庵に師事し、長崎で華音(中国語)を学ぶ[1]。納戸組となり、奥頭取に班する[3]。
天保12年(1841年)学問所指南加勢見習となり、諸職を歴任して、慶応元年(1865年)藩校修猷館の督学・教授となる[2]。福岡藩主黒田家の家譜の編修にも携わった[3]。慶応3年(1867年)致仕[2]。