橘綿裳
橘 綿裳(たちばな の わたも)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は橘朝臣のち広岡朝臣、橘宿禰を経て再び橘朝臣。中宮大夫・橘佐為の子。官位は従四位上、右京大夫。
時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 大同4年6月26日(809年8月10日) |
官位 | 従四位上・右京大夫 |
主君 | 称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 橘朝臣 →広岡朝臣 →橘宿禰→橘朝臣 |
父母 | 父:橘佐為 |
兄弟 |
広足、文成、綿裳、御笠、宮子、 古那可智、真都我、真姪 |
子 | 継成、百枝 |
経歴
編集天平宝字元年(757年)橘奈良麻呂の乱の発生後間もなく、兄弟の真姪と共に橘朝臣から広岡朝臣に改姓するが、その後橘宿禰姓に戻されている。天平宝字3年(759年)従五位下・左大舎人助に叙任される。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱が発生する直前に上野員外介に左遷される。
称徳朝末の神護景雲3年(769年)少納言に任ぜられ、翌宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に前後して、従五位上・中務少輔兼山背守に叙任される。宝亀9年(778年)姉妹の三笠と共に橘朝臣に改姓される。
桓武朝に入ると延暦3年(784年)大判事に転じる。光仁朝から桓武朝の前半まで20年以上に亘って従五位上から昇進できなかったが、延暦16年(797年)正五位上に叙せられるなど、桓武朝の後半から平城朝にかけては昇進し、大同4年(809年)までに従四位上に至った。またこの間、宮内大輔・右京大夫[1]などを務めている。
官歴
編集『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平宝字元年(757年) 閏8月18日:橘朝臣から広岡朝臣に改姓
- 時期不詳:広岡朝臣から橘宿禰に改姓
- 天平宝字3年(759年) 6月16日:従五位下。7月3日:左大舎人助
- 天平宝字8年(764年) 8月4日:上野員外介
- 神護景雲3年(769年) 5月9日:少納言
- 時期不詳:中務少輔
- 神護景雲4年(770年) 9月16日:兼山背守。11月10日:従五位上
- 宝亀9年(778年) 9月25日:橘朝臣に改姓
- 延暦3年(784年) 4月2日:大判事
- 延暦8年(789年) 2月4日:兼越中介
- 延暦10年(791年) 正月28日:宮内大輔
- 時期不詳:正五位下
- 延暦16年(797年) 正月7日:正五位上
- 時期不詳:従四位上
- 大同4年(809年) 6月26日:卒去(散位従四位上)