橘清治郎
橘 清治郎(たちばな せいじろう、1850年6月29日(嘉永3年9月25日[1][2][3])- 1928年(昭和3年)5月30日[1][4])は、明治から大正期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・吉田[1]。
経歴
編集越中国礪波郡中田町(富山県東礪波郡中田町を経て現高岡市)で吉田要蔵の二男として生まれる[1]。射水郡、のちの守山村(現:高岡市)の米穀商・砂紋四郎家に住み込みで奉公し、同村の農業・安右衛門の養子となり[1][注 1]、文久2年3月(1862年3-4月)家督を相続[1][2][3]。1872年(明治5年)橘姓で戸籍の届け出を行った[1]。
米の仲買人として成功して一代で財産を築いた[1][注 2]。越中物産取締役、北越人造肥料取締役、高岡銀行取締役、高田共立銀行監査役なども務めた[1][2][3]。
1889年(明治22年)守山村会議員[4]に選出され長らく在任し[1]、同村学務委員なども務めた[4]。1914年(大正3年)補欠選挙で立憲政友会系[1]として貴族院多額納税者議員に選出され、同年11月20日[5][6]から1918年(大正7年)9月28日まで在任した[1][4]。
隠居して、晩年は高岡市宮脇町の分家した二女てる宅で過ごした[1]。
親族
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『富山大百科事典 下巻』北日本新聞社、1994年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。