楯岡満茂
楯岡 満茂(たておかみつしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。最上氏の家臣。楯岡氏の当主。豊前守を称す。後に本城満茂と称した。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 弘治2年(1556年)[1] |
死没 | 寛永16年1月21日(1639年2月23日) |
改名 | 楯岡満茂 → 赤尾津満茂 → 本城満茂 |
戒名 | 長寿院殿傑山宗英大居士 |
墓所 | 長昌寺(群馬県前橋市) |
官位 | 受領名:豊前守 |
主君 | 最上義光 → 家親 → 義俊→酒井忠世 |
藩 | 出羽国山形藩士 |
氏族 | 楯岡氏 → 赤尾津氏 → 本城氏 |
父母 | 父:楯岡義郡 |
兄弟 | 満茂、満広、高茂、南昌院(大山光因室) |
妻 | 山家家高の娘 |
子 |
満信? 女(大山光隆室)、源高院(親茂室)、 養子:親茂、満旨 |
生涯
編集最上氏の庶流の一族で、出羽国楯岡城(山形県村山市楯岡)を領していた。天正14年(1586年)には小野寺義道の侵攻を最上義康と共に有野峠の戦いで苦戦しながらも撃退し、文禄4年(1595年)には最上軍の総大将として小野寺領の仙北郡に侵攻し、湯沢城を奪取し、その城を与えられ湯沢氏を称した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに関連して勃発した慶長出羽合戦では、上杉氏相手の合戦には赴かず、小野寺氏に対する押さえとして同地の守備にあたった。関ヶ原の合戦以後、最上氏の領地となっていた雄勝郡は佐竹氏の領地とされ、その代わりとして与えられた由利郡に慶長8年(1603年)に移る。居城した赤尾津城にちなんで赤尾津氏を一時名乗ったが、子吉郷に築いた本荘城(秋田県由利本荘市尾崎)に移ってからは本城氏[2]を名乗る。
慶長17年(1612年)の最上氏の分別帳によれば、満茂の所領は4万5000石と最上家中における最高の禄高であった。しかし元和8年(1622年)、最上氏が幕命により改易されると、その身柄を酒井忠世に預けられた。
その後、赦されて忠世に仕え、客分として1200石を給される。この時その一族郎党も召し抱えられ、酒井家中で最上衆と呼ばれている。また、本城満慶と改名した。甥の親茂を継嗣としたが急逝したため、姪の子の満旨に跡を継がせた。寛永16年(1639年)死去と本城家譜に記されている。
- 父:楯岡義郡
- 母:台明鏡公大姉(-天正14(1586)年10月23日)
- 兄弟姉妹
- 正室:山家家高の娘(-寛文8(1668)年10月17日):法名は鏡清院殿明窓春光大姉
- 側室:妙寿院殿釈尼離貞(1568-明暦3(1657)年5月11日)
脚注
編集- ^ a b 『最上家臣余録 【本城満茂 (11)】:最上義光歴史館』 。
- ^ “本荘城のあらまし”. 由利本荘市、修身館. 2014年5月9日閲覧。
- ^ 前橋市長昌寺公式サイト『長昌寺と本城氏の絆』
- ^ なお、新城氏墓所は前橋市指定史跡となっているが、満茂の墓石は現存しない。文化8年(1811年)に姫路藩重臣の本城満主が調査した時点では残っていたが、明治時代後期の寺院火災の混乱で失われたと考えられている。現在は、楯岡満茂の妻、次女、養子となった楯岡親茂の3基の墓が現存している。
- ^ 『本荘市史 史料編 1 下』本荘市、1985年、562-583頁。doi:10.11501/9571348 。
- ^ 『群馬の墓めぐり 市部篇』みやま文庫、1980年、3頁。doi:10.11501/12254383 。