楊定 (仇池)
楊 定(よう てい)は、後仇池の初代君主。曾祖父は前仇池の第2代君主楊難敵[1]。祖父は楊宋奴[1]。父は楊仏奴[1]。妻は前秦の皇帝苻堅の娘[2]。
楊定 | |
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後仇池 | |
初代龍驤将軍・平羌校尉・仇池公 | |
王朝 | 後仇池 |
在位期間 | 385年 - 394年 |
姓・諱 | 楊定 |
生年 | 不明 |
没年 | 394年 |
父 | 楊仏奴 |
略歴
編集祖父の楊宋奴は355年の内乱で殺され、このため父の楊仏奴が前秦に亡命して右将軍として仕え、楊定も尚書・領軍将軍として前秦に仕えて皇帝苻堅の娘婿になった[2]。383年10月の淝水の戦いで苻堅が大敗した後も前秦に仕え続けた[2]。385年8月、苻堅が後秦により殺害されたため楊定は部衆を率いて隴右に逃れ、11月に歴城に移って[2]、龍驤将軍・平羌校尉・仇池公を自称し自立、後仇池政権を建国した[3]。
楊定は東晋に服属して自称していた称号全てを認可され、390年には天水・略陽・隴城・冀城など秦州を占拠し隴西王を自称するなど勢力を拡大した[3]。だがそのために西秦の乞伏乾帰と衝突し、394年10月に合戦となり敗北した楊定は殺害されてしまい、隴西も失った[3]。
脚注
編集参考文献
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