楊僧嗣
経歴
編集武都王楊元和の従叔父にあたる[1]。楊元和が死去すると、僧嗣は自ら武都王として立った。葭蘆城に帰還し、南朝宋により寧朔将軍・仇池太守に任じられた[2]。
466年、南朝宋により仇池太守のまま冠軍将軍・北秦州刺史に任じられ、武都王に封じられた[3]。
467年、南朝宋により北秦州刺史のまま持節・都督北秦雍二州諸軍事の任を加えられ、征西将軍の号に進んだ[4]。僧嗣は死去し、従弟の楊文度が後を嗣いだ[5]。
脚注
編集- ^ 『魏書』氐伝は楊元和の従叔父とし、『宋書』氐胡伝は楊元和の従弟とする。
- ^ 『宋書』氐胡伝
- ^ 『宋書』氐胡伝による。僧嗣がこの年に北秦州刺史・武都王となったことは同書明帝紀泰始2年秋7月丁酉の条にも見える。
- ^ 『宋書』氐胡伝による。僧嗣がこの年に征西将軍に進んだことは同書明帝紀泰始3年夏4月乙未の条にも見える。
- ^ 『宋書』氐胡伝では、僧嗣の死と楊文度の自立は太宗泰始3年(467年)に続く記事として現れる。『資治通鑑』では元徽元年(473年)冬10月の記事に見える。ただし『資治通鑑』の説を採ると、『宋書』氐胡伝の泰豫元年(472年)に楊文度が龍驤将軍・略陽郡太守となり、武都王に封じられた記事とは矛盾が生じる。