森中千香良
森中 千香良(もりなか ちから、1939年10月20日 - 2008年4月14日)は、奈良県奈良市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。1970年から1974年までの登録名は森中 通晴(もりなか みちはる)。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県奈良市 |
生年月日 | 1939年10月20日 |
没年月日 | 2008年4月14日(68歳没) |
身長 体重 |
175 cm 74 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1958年 |
初出場 | 1960年6月8日 |
最終出場 | 1975年9月19日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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森中 千香良 | |
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生誕 | 1939年10月20日 |
死没 |
2008年4月14日(68歳没) 日本・奈良県大和郡山市 |
教育 | 奈良県立奈良商工高等学校 |
職業 |
野球解説者 野球評論家 スポーツリポーター |
活動期間 | 1976年 - 1995年、1998年 - 2007年 |
代表経歴 |
テレビ神奈川野球解説者(1976年 - 1995年) ニッポン放送野球解説者・リポーター(1980年 - 1995年) ニッポン放送野球解説者(1998年 - 2008年) 東京中日スポーツ野球評論家(1998年 - 2008年) J SPORTS野球解説者 GAORA野球解説者 |
経歴
編集プロ入りまで
編集奈良商工では2年次の1956年にエースとして秋季近畿大会に出場したが、1回戦で寝屋川高に敗れたため選抜出場はならなかった。3年次の1957年は春季近畿大会県予選の準々決勝で郡山高に惜敗し、夏も県予選で敗れて甲子園には届かなかった。
現役時代
編集卒業後の1958年に南海ホークスへテスト入団。入団当時は制球難で、1年目は選手登録すらしてもらえず、もっぱら打撃投手が主な役割であった。2年目の1959年にウエスタン・リーグで防御率0.90を記録し、最優秀防御率のタイトルを獲得。3年目の1960年に一軍に昇格して5勝を挙げると、1961年には先発陣に入って11勝を上げて台頭[1]、2年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年の巨人との日本シリーズでも3試合に登板した。10月29日の第4戦(後楽園)では先発するが、3回に打ち込まれ敗戦投手となる。
1963年には初めて規定投球回に達し、防御率2.50(リーグ5位)を記録。17勝8敗、勝率.680で最高勝率のタイトルを獲得した。1964年の阪神との日本シリーズでもリリーフで3試合に登板。野村克也、皆川睦雄、杉浦忠らと共に南海の黄金時代を支えた。1965年もローテーションの一角として活躍し[2]、1966年は開幕戦の前日に鶴岡一人監督からトイレで初の開幕投手に指名されるなど大きな期待をかけられたが、同年は5勝10敗、防御率3.64と今一つの成績に終わる。
当時は10年選手制度が存在したこともあって南海はトレード放出を決定し、大洋ホエールズ・サンケイアトムズ・広島カープの間で争奪戦となったが、最後は森中の希望が通って1967年に大洋に移籍。同年は255イニングを投げてチーム最多の18勝、防御率2.96(16位)という素晴らしい成績を残した。中でも移籍の際に南海の尾張久次スコアラーから贈られた巨人攻略法を記載された「尾張メモ」が大きく役立ち、首位を独走した巨人から7勝を挙げ「巨人キラー」ぶりを発揮。秋山登、稲川誠の相次ぐ引退で弱体化した大洋投手陣を支えたが、平松政次が最多勝を挙げ、エースとなった1970年からは登板機会が減少し、1972年には東映フライヤーズに移籍。同年は金田留広に次ぐチーム2位の11勝、防御率3.45(12位)を記録してカムバックを果たす。1975年には再び大洋に移籍するが、ここではあまり活躍の場がなく、同年限りで現役を引退。
引退後
編集引退後はテレビ神奈川(1976年 - 1995年)、ニッポン放送(1980年 - 1995年, 1998年[3] - 2008年)、J SPORTS・GAORA[4](1998年 - 2008年)[5]で野球解説者、晩年は東京中日スポーツ野球評論家(1998年 - 2008年)も務めた。長い解説業の合間を縫って、中日ドラゴンズ二軍投手コーチ(1996年 - 1997年)も務めた。
ニッポン放送では主にベンチリポーター[6]や予備カードの解説者を務め、解説者名鑑には「21年間LFのそれもメインでなくベンチレポート役に徹した苦労人。」と記述された[6]。松本秀夫(ニッポン放送アナウンサー)の公式戦初実況は森中の解説による予備カードで、1987年8月9日の広島×大洋戦(広島市民)であった[7] [8][9]。
中日コーチ時代はシーズン当初に二軍で3連敗を喫して「これではプロでは通用しない」と落胆していた門倉健に「とにかく低めへ投げ続けろ。フォークが落ちれば上(一軍)でも通用する」とアドバイス。門倉はその教えに従って投げ続けていたところ、好投できるようになった[10]。
ニッポン放送復帰後では予備カードやNRN系列地方局向けの裏送り中継[11]が中心であり、復帰以降は印刷物に掲載される番組広告やwebページの解説者リストにも名前が載っていなかった[12]。KBCラジオ向け裏送りによるホークス戦中継を担当する事が多く、担当した試合の不敗神話も生まれた[13]。
エピソード
編集- 生涯独身であり、パンチョ伊東らと結成した「独身貴族会」の一員でもあった。また、同じテスト生出身ということで、現役時代の野村を兄貴分と慕っていた[15]。
- 茶目っ気のある関西弁が人気で、口は悪いが誰からも愛されるキャラクターであった[7]。60代になっても若い選手と友達感覚で話せる稀有な存在で、松本には試合後の反省会で人付き合いの基本や酒の飲み方を教えたほか、愛車のジャガーに乗せていた[7]。自身は糖尿病を患い、酒は飲めなかったが、烏龍茶で座を盛り上げ、馴染みの店のマスターを強引に説得して格安値段にしたこともあった[7]。
- 生家があったのは、奈良県庁勤務の父親が管理責任者を務める、東大寺大仏殿近くの県立公会堂の敷地の一角。南海に在籍していた当時は、本拠地の難波の大阪球場まで奈良の実家から電車とタクシーで通っていた。その理由として「こんな静かな場所(実家)にいると、大阪市内のごみごみしたアパートに住もうという気が起こりませんわ」と話している[16]。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1960 | 南海 | 30 | 10 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | -- | -- | .500 | 477 | 118.0 | 107 | 6 | 28 | 3 | 4 | 89 | 1 | 1 | 40 | 31 | 2.36 | 1.14 |
1961 | 56 | 25 | 2 | 0 | 0 | 11 | 9 | -- | -- | .550 | 747 | 188.0 | 154 | 15 | 47 | 3 | 2 | 140 | 1 | 0 | 74 | 63 | 3.02 | 1.07 | |
1962 | 56 | 11 | 0 | 0 | 0 | 10 | 8 | -- | -- | .556 | 606 | 144.2 | 140 | 16 | 41 | 4 | 6 | 94 | 2 | 0 | 73 | 60 | 3.72 | 1.25 | |
1963 | 47 | 29 | 13 | 3 | 1 | 17 | 8 | -- | -- | .680 | 866 | 217.1 | 191 | 12 | 51 | 5 | 9 | 116 | 2 | 2 | 76 | 63 | 2.60 | 1.11 | |
1964 | 51 | 21 | 4 | 1 | 1 | 8 | 9 | -- | -- | .471 | 710 | 168.2 | 152 | 21 | 65 | 3 | 4 | 124 | 0 | 0 | 84 | 75 | 3.99 | 1.29 | |
1965 | 38 | 19 | 3 | 1 | 1 | 6 | 6 | -- | -- | .500 | 519 | 125.2 | 111 | 18 | 42 | 2 | 2 | 94 | 2 | 0 | 68 | 58 | 4.14 | 1.22 | |
1966 | 34 | 17 | 2 | 1 | 0 | 5 | 10 | -- | -- | .333 | 494 | 121.1 | 112 | 17 | 32 | 3 | 6 | 79 | 0 | 0 | 55 | 49 | 3.64 | 1.19 | |
1967 | 大洋 | 47 | 27 | 14 | 1 | 1 | 18 | 14 | -- | -- | .563 | 1052 | 255.0 | 231 | 26 | 72 | 14 | 9 | 182 | 0 | 0 | 94 | 84 | 2.96 | 1.19 |
1968 | 31 | 21 | 5 | 2 | 0 | 8 | 11 | -- | -- | .421 | 644 | 153.1 | 159 | 19 | 48 | 0 | 5 | 100 | 0 | 0 | 67 | 58 | 3.41 | 1.35 | |
1969 | 28 | 24 | 3 | 1 | 0 | 9 | 9 | -- | -- | .500 | 605 | 145.2 | 130 | 17 | 46 | 4 | 4 | 102 | 0 | 0 | 59 | 55 | 3.39 | 1.21 | |
1970 | 6 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 47 | 11.1 | 14 | 2 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 7 | 7 | 5.73 | 1.32 | |
1971 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | -- | .333 | 79 | 19.1 | 18 | 3 | 6 | 1 | 0 | 13 | 0 | 0 | 11 | 10 | 4.74 | 1.24 | |
1972 | 東映 日拓 日本ハム |
30 | 28 | 9 | 2 | 0 | 11 | 6 | -- | -- | .647 | 683 | 164.1 | 172 | 17 | 34 | 4 | 6 | 87 | 2 | 0 | 64 | 63 | 3.46 | 1.25 |
1973 | 18 | 13 | 2 | 1 | 0 | 4 | 6 | -- | -- | .400 | 293 | 62.2 | 86 | 10 | 28 | 4 | 4 | 30 | 1 | 3 | 43 | 39 | 5.57 | 1.82 | |
1974 | 15 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 121 | 26.0 | 37 | 3 | 8 | 0 | 0 | 18 | 0 | 0 | 25 | 24 | 8.31 | 1.73 | |
1975 | 大洋 | 17 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | .500 | 114 | 25.2 | 29 | 3 | 11 | 0 | 2 | 18 | 1 | 0 | 18 | 16 | 5.54 | 1.56 |
通算:16年 | 517 | 255 | 58 | 13 | 4 | 114 | 108 | 1 | -- | .514 | 8057 | 1947.0 | 1843 | 205 | 560 | 50 | 63 | 1292 | 12 | 6 | 858 | 755 | 3.49 | 1.23 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
タイトル
編集- 最高勝率:1回 (1963年)
記録
編集- オールスターゲーム出場:2回 (1963年、1967年)
背番号
編集- 55 (1958年 - 1966年途中、1967年 - 1971年)
- 11 (1966年途中 - 同年終了)
- 13 (1972年 - 1974年)
- 38 (1975年)
- 85 (1996年 - 1997年)
登録名
編集- 森中 千香良(もりなか ちから、1958年 - 1969年、1975年 - 2008年)
- 森中 通晴(もりなか みちはる、1970年 - 1974年)
関連情報
編集出演番組
編集- プロ野球中継
- TVK製作・放送分
- ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送・NRN系地方局裏送り。1980年 - 1995年、1998年 - 2007年。
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS)
- 熱パ プロ野球中継(GAORA)
- 鶴光の代打逆転サヨナラ満塁ホームラン 花とおじさん(ニッポン放送。1985年10月 - 1986年3月)
脚注
編集- ^ “ホークスの歩み(1961年)”. 福岡ソフトバンクホークス 2020年4月4日閲覧。
- ^ “ホークスの歩み(1965年)”. 福岡ソフトバンクホークス 2020年4月5日閲覧。
- ^ 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』P199に掲載された、森中の解説者名鑑(ニッポン放送の解説者として紹介)より「長年在籍のLFに復帰。」との記述あり。
- ^ 参考:GAORA公式サイト内で配信されたプロ野球中継放送予定表
- ^ 『プロ野球12球団全選手百科名鑑』(2000年より『12球団全選手カラー百科名鑑』)シリーズの解説者名鑑では、未掲載の場合もあり(参考:2000年・2002年)。2003年版から最後の掲載となった2007年版までは、CS系の解説者としてプロフィールが掲載。2003年版は出演先について「Jスカイスポーツ」、2004年版は「JスカイS」との表記で紹介(※Jスカイスポーツ=J SKY SPORTSは、J SPORTSの旧称)。2005年版以降は他の解説者とともにCS系というくくりで紹介。2003年版P240に掲載された森中の解説者名鑑では「コーチ後はCS系」との記述があるが誤り。
- ^ a b 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』P240
- ^ a b c d 松本秀夫のやぎメール
- ^ 松本秀夫『プロ野球 実況できなかったスゴイ話』ぜんにち出版、2009年、ISBN 978-4-86136-122-7。
- ^ 同日は日曜日のため、地元のNRN系列局である中国放送(RCC)はTBSラジオ・JRN向け予備カード扱いのものを自社で放送し、同局が別に配置したNRN向けは土・日曜のNRNナイター幹事局である文化放送への配信となっていたことから、ニッポン放送が直接広島に乗り込んだ。
- ^ 『中日新聞』1996年11月12日朝刊運動第一面23頁「中日秋季キャンプ 門倉“2年目”に挑む 「10.6」の悔しさ胸に まず体力づくり」(中日新聞社 記者:村井博美)
- ^ 参考:『東海ラジオ ガッツナイター』番組公式サイト内中継日程ページ
- 2002年当時(インターネット・アーカイブ2002年10月22日付保存キャッシュ) ※5月12日の横浜対中日デーゲーム(実況は松元真一郎。リンク先は「森元真一郎」と誤記)、7月17日ヤクルト対中日ナイトゲーム(実況は師岡正雄)、9月4日横浜対中日ナイトゲーム(「森中千薫良」と誤記。実況は洗川雄司)。
- 2003年当時(インターネット・アーカイブ2003年10月6日付保存キャッシュ) ※6月26日のヤクルト対中日ナイトゲーム、8月8日・9月19日横浜対中日ナイトゲーム(いずれも、実況は福永一茂)。
- 2004年当時(インターネット・アーカイブ2004年10月9日付保存キャッシュ) ※8月13日ヤクルト対中日ナイトゲーム(実況は石黒新平)。
- ^ 参考リンク:
- 2001年当時の『ニッポン放送ショウアップナイター』解説者名鑑(インターネット・アーカイブ2001年6月27日付保存キャッシュ)
- 2007年当時の『ニッポン放送ショウアップナイター』公式サイト(インターネット・アーカイブ2007年12月21日付保存キャッシュ)
- ^ 参考リンク…KBCラジオで森中とプロ野球中継を担当していたアナウンサーによるブログ記事:
- ^ 森中千香良氏死去 - 『日刊スポーツ』2008年4月15日付 同日閲覧。
- ^ “野村監督が森中さんの死にショック - 野球ニュース”. nikkansports.com. 2020年5月27日閲覧。
- ^ よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part6 1963年編(ベースボール・マガジン社、2023年11月刊)76頁
参考資料
編集- 『プロ野球12球団全選手百科名鑑』→『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ各年度版(日本スポーツ出版社発行)
- 各種外部リンク
関連項目
編集外部リンク
編集- ライツ(スポーツ文化人派遣会社)のウェブサイトに掲載されたプロフィール - インターネットアーカイブ2007年3月15日付保存キャッシュ
- 森中千香良氏死去 元プロ野球投手 - ウェイバックマシン(2014年7月14日アーカイブ分) - 『47NEWS』2008年4月15日付(ソース:共同通信)