森丘正唯
日本の政治家・農村指導者
森丘 正唯(もりおか まさただ、1880年(明治13年)3月23日[1] - 1967年(昭和42年)9月10日[1])は、日本の政治家・農村指導者。
もりおか まさただ 森丘 正唯 | |
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生誕 |
1880年3月23日 富山県下新川郡大布施村(現・黒部市) |
死没 | 1967年9月10日(87歳) |
国籍 | 日本 |
職業 | 政治家・農村指導者 |
人物
編集富山県下新川郡大布施村(現・黒部市)に、地主の森丘彦の長男として生まれる。20歳で大布施村の村長となる[1]。1903年(明治36年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語政治科卒業[2]。
1940年(昭和15年)、町村合併によって発足した桜井町の初代町長となった[3]。
下新川郡会議員、富山県会議員・富山県会議長、富山県農会副会長、産業組合中央会富山県支会長などを歴任した。戦後に富山県農業協同組合中央会が設立されると、初代会長に就任した[3]。
富山県立桜井高等学校の前身である下新川郡立農業学校を創立したほか、1962年(昭和37年)には北日本新聞社社長に就任するなど、地方自治、文化、農業・農村の振興、産業組合・農業協同組合の発展に尽力した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』早稲田大学校友会、1915 - 1925年。