根岸飛行場(ねぎしひこうじょう)は、かつて神奈川県横浜市磯子区芝生町[1](現 鳳町原町西町の南部分の一部)にあった、日本初の飛行艇専用の民間飛行場。正式名称は、大日本航空横浜水上飛行場[2]

概要

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1940年(昭和15年)大日本航空により開設された。同じ横浜市の金沢区にあった海軍横浜航空隊横浜基地(同様に飛行艇専用)[3]に対して、当飛行場は横浜水上飛行場とも呼ばれた。

敷地は埋め立て地であるが、既存の海岸線に接続するのではなく、四角い人工島であった。人工島の大きさは、東西約300m、南北約400メートルあった[注釈 1]。北側と西側が鳳運河(幅は約36m、延長944m[4]。現・磯子区原町14および西町17の一部)であり、東側と南側は根岸湾だった。陸と人工島は、鳳橋でつながれていた[5]

広さは約2万坪とされる[3][6]。格納庫は九七式飛行艇を8機もしくは12機収容可能という大規模なものだった[6][7]。ターミナルビルは1階が接客設備(待合室・食堂)、2階は飛行場関係者のスペース(所長室・通信室)があり、屋上にガラスで覆われた管制室があった[5][6]。敷地の南端には飛行艇昇降用の斜路[注釈 2](長さ90メートル、幅40メートル)があり、[要出典]海面(根岸湾)と往来できた。飛行艇は海面で離着水するので、滑走路はない[3]

川西航空機製の九七式飛行艇による、横浜 - サイパン - パラオ間を結ぶ定期航空路(週2便)の基地として使用された。航空路は、サイパンを経由してトラック(現・チューク諸島)、ポナペヤルートまで伸びており、所要時間の一覧表もあった。1940年(昭和15年)3月6日に一番機が発進し[8]、横濱貿易新報(神奈川新聞の前身)にも報じられている[6]

運行開始当初は通常の民間利用があった(急病人輸送を含む)ものの[6]大日本航空自体は国が設立した特殊法人だったため、太平洋戦争が始まるころには軍の偵察目的にも利用された。[要出典]特別攻撃隊要員を輸送したことが、当時の搭乗員が残した手帳に記されている[6]

敗戦後の1945年9月に台湾に紙幣を送るための飛行艇が発着(9月9日出発、同13日帰着)したのを最後に[3][9]、日本を占領下に置いた米軍に接収された[6][10]

跡地

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飛行場の北西の部分は横浜プールセンター、北東の部分は横浜市立根岸中学校になっている。南の部分はENEOS根岸製油所である。製油所の現地見学はできず、関係者以外は立入禁止である。横浜プールセンターは営業期間中であれば入場できる。

横浜プールセンター入口交差点に「根岸飛行場跡」と記された説明プレートがある[6]

交通情報

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横浜プールセンターまで

その他

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  • 映画『南海の花束』(東宝、1942年作)‐ 大日本航空の協力の下、九七式飛行艇が根岸湾で離着水するシーンが登場する[11]。ちなみに特撮は円谷英二が担当している。

脚注

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注釈

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  1. ^ 人工島があった当時及び現在の空中写真から計測。
  2. ^ 正式名称は不明。滑走台(プールセンター入り口付近の説明板)や、スベリ(葛城峻氏作成の資料)などの表現あり。

出典

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外部リンク

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