柴田秀利
柴田 秀利(しばた ひでとし、1917年7月 - 1986年11月)は、日本のジャーナリスト、実業家。日米にまたがる広い人脈を駆使して、日本へのテレビ導入と日本テレビ設立、原子力利用、ゴルフブームに重要な役割を果たした。
経歴
編集- 1917年 愛知県東春日井郡瀬戸町(現瀬戸市)で生まれる。
- 1931年 ゴルフを始める(名古屋ゴルフ倶楽部)
- 1935年 愛知県立明倫中学校(現愛知県立明和高校)卒業。名古屋市大曽根の陶器絵付工場に住み込みで働くが、病気で勤めをやめる。
- 1936年4月 上京し青山学院大学英文学科入学。
- 1937年 全日本学生演劇連盟理事長(会長久米正雄、副会長岸田国士)
- 1940年 青山学院大学英文学科卒業。報知新聞社入社。
- 1941年 応召、岐阜の第68歩兵連隊へ入隊。
- 1942年 陸軍少尉で中国出征。
- 1943年 病気で内地帰還。応召解除。読売報知新聞社復社。社会部付大本営報道記者。千田是也、伊藤道郎らと「太陽の劇場」運動起こす。
- 1945年 連合軍総司令部担当記者となる。
- 1946年5月 食糧メーデー最中、高松宮、竹田恒徳(旧竹田宮)に呼ばれ、「何とかならんかねえ、頼むよ」と相談される。
- 1948年11月 NHKの嘱託を兼務、日本最初のニュース解説者となる。
- 1949年 読売新聞社退社
- 1951年4月 電波事情視察のため渡米、要人にテレビ計画実現の協力を要請。
- 8月 NHKニュース解説者を辞任。
- 1953年3月 渡米、元アメリカ軍戦略諜報局(OSS)長官で弁護士のビル・ダナヴァン将軍にマイクロウェーブによる多重通信ネットワークシステム建設のための1000万ドル借款の協力を要請。4月15日、アメリカ対日協議会のウィリアム・リチャーズ・キャッスルから、手紙でウォルター・ロバートソンを紹介される。[1]
- 1955年ころ 原子力委員会の初代委員長となる正力松太郎と共に、反核感情が高まるもとで原子力発電を導入するために「毒をもって毒を制する」大キャンペーンを展開。[2]
- 1957年12月 日本テレビ放送網株式会社取締役就任。
- 1962年10月 よみうりランド建設計画のためアメリカ視察。
- 1963年5月 正力とけんか、10ヶ月出社せず。
- 1967年 日本テレビ専務取締役就任。
- 1968年9月 正力と再度衝突。日本テレビを去る。
- 1972年10月 財団法人公益法人協会設立。顧問就任。
- 1979年12月 穂高自然保護財団設立。理事長就任。
- 1986年10月 アメリカへ旅行、翌月フロリダでゴルフ中に客死。69歳没。[3]
著書
編集関連文献
編集- 有馬哲夫『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』新潮新書、2008年。ISBN 978-410-610249-3
- 有馬哲夫『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』新潮社、2006年。ISBN 978-410-302231-2/宝島社・文庫、2011年
- 有馬哲夫『CIAと戦後日本 保守合同・北方領土・再軍備』平凡社新書、2010年。ISBN 978-4582-85530-2
- 佐野眞一 『巨怪伝-正力松太郎と影武者たちの一世紀』文藝春秋、1994年11月。ISBN 978-4163494609/文春文庫(上下)、2000年
- 佐野眞一 『新 忘れられた日本人IV 昭和の人』毎日新聞社、2012年7月。ISBN 978-4620321394
関連項目
編集脚注
編集- ^ 有馬哲夫 『日本テレビとCIA-発掘された「正力ファイル」』 新潮社 2006年10月 pp.71-73.
- ^ NHK現代史スクープドキュメント『原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』1994年3月16日放映
- ^ 「柴田秀利氏のホームページ 」
外部リンク
編集- 「マガジン航:電子書籍版『戦後マスコミ回遊記』誕生秘話〜ノンフィクション作家・佐野眞一さん、柴田秀利を語る」2002年4月18日、東京ビッグサイトより採録]