柴勝男
柴 勝男(しば かつお、1901年(明治34年)9月4日 - 1970年(昭和45年)1月3日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍大佐。旧姓・阿部。千葉県出身。
柴 勝男 | |
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1951年 | |
生誕 |
1901年9月4日 日本、千葉県 |
死没 | 1970年1月3日(68歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1923年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
経歴
編集農業・阿部作次郎の二男として千葉県で生まれた。私立大成中学校(現千葉県立長生高等学校)を経て、1922年6月、海軍兵学校(50期)を卒業、翌年9月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、島風水雷長を経て、水雷学校専攻科で学んだ。綾波水雷長を経て、1934年7月、海軍大学校(甲種32期)を卒業する。
沼風艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、響艦長、海大教官、軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。海軍省軍務局第1課付、同課局員などを歴任し、軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
1943年5月、海軍大佐に昇進する。1944年2月、大井の艦長として前線に出征したものの、大井は同年7月にアメリカの潜水艦フラッシャーの雷撃で沈没し、生還した。軍令部第1部員兼参謀本部員として終戦を迎え、1945年9月2日にアメリカ海軍の戦艦ミズーリの艦上での行われた降伏文書調印式に日本側全権団随員で参加、同年11月に予備役に編入された。
海軍内の親独対米強硬派の一人として知られていた。大井篤の回想によれば、8月17日に軍令部で柴が「大井君、まだ日本は負けとらん」と言い「天皇陛下は詔勅を出されたではないか」と大井が言い返すと、柴が「あいつ(陛下)は臆病だったが我々の上には大元帥陛下がいるんだ」と言ったため、大井が「違う。大元帥陛下は天皇陛下の下だ」と言い返したという[1]。
親族
編集- 義父:石川秀三郎(海軍少将)
脚注
編集- ^ 阿川弘之・半藤一利『日本海軍、錨揚ゲ!』PHP研究所p84-85