柳生清厳
柳生清厳 | |
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 元和2年(1615年) |
死没 | 寛永15年1月1日(1638年2月14日) |
別名 | 権平、新左衛門(通称)、任去斎、委心 |
戒名 | 韶室宗陽禅定門 |
墓所 | 白林寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川義直 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 柳生氏 |
父母 | 父:柳生利厳 |
兄弟 | 清厳、利方 、厳包 |
柳生 清厳(やぎゅう きよとし、元和元年(1615年)‐寛永15年1月1日(1638年2月14日))は、江戸時代前期の武士。尾張藩士、柳生新陰流の剣術家。通称、新左衛門。
略歴
編集有望な嫡男
編集元和元年(1615年)柳生利厳の嫡男として誕生した。母は正室だというが、不明である[3]。初名は権平。
この年父・利厳は成瀬正成の推挙[4]により尾張藩主徳川義直に兵法師範として500石で仕えている[5]。
清厳は利厳から直々に新陰流を叩き込まれ、自身でも宝蔵院流槍術を習得していた。また読書・詩歌に勤しむなど文武両道の人物であった。
元服して新左衛門と名乗ると、徳川義直の小姓となり300石を賜った。清厳は新陰流の後継者として父・主君に大いに期待されていた。
病による絶望
編集しかし小姓就任直後、急病によって任を辞せざるを得なり、柳生の別宅で療養することになる。病床の清厳は衰弱し、家名を汚すことを恐れていたという。
健康のため有馬温泉へ通うなどの活動もみられているが、伝言などから死を望んでいたと考えられる。
死地を求めて
編集寛永14年(1637年)島原の乱が起きると、「吾不幸にして廃侯に嬰り、汚名身を辱しむ、豈久しく生きて人間に在らんや、命を此役に殞し、耻を雪ぎ憤を解くの愈れるに如かず」[6]と親しい者に言い残し、幕府軍軍監で清厳の交友でもある石谷貞清[7]に参陣を請うて、松倉勝家に属する。利厳ら家族には湯治を名目にして旅立ち、何も告げていなかったという。
12月27日、家人の安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、草履取の彌蔵、槍持某[8]を連れて着陣、1月1日大将格の板倉重昌が総攻撃を行うと、清厳も先方軍として従って突撃した。
清厳は十文字槍を振るい、槍が傷むとこれを刀に替えるなど奮戦するが、板倉重昌が戦死する[9]と軍が崩れ、清厳も鉄砲に当たり戦死した。安藤仁兵衛儀玄[10]、武藤太左衛門儀信[11]、草履取の彌蔵[11]も清厳の後を追って討ち死にした。
清厳は24歳の若さであった。
遺言
編集清厳は敗勢の中死を悟って、槍持に「生死皆忠なりと、奴己むことを得ずして会に従ひ、清厳の死するに及びて、遺書と槍とを携へて還る」と言い、遺書と遺髪、血塗れた十文字槍を託し、遺書の中で無断で家を出たことを父に詫び、弟を残しながら孝行できなかったことを母[12]に謝罪した。弟らには「茂左、新六は母をよろしく頼む」[13]と残している。
また姑夫[14]・天野四郎右衛門[15]には、「西風一陣来 黄葉頻辞枝 看々得春色 功名不朽時」[16]と辞世の詩を残している。
槍持は激しく泣きながら無事に尾張へ遺書と遺髪、十文字槍を持ち帰っている。
死後
編集尾張柳生家の家督は利方に、尾張藩2代藩主徳川光友の指南役に厳包が就任している。
清厳は結婚せず、子はいなかった。
参考資料
編集脚注
編集- ^ 清厳が残した遺書の中に「茂左、新六は母をよろしく頼む」とする一文があるほか、弟・利方が晩年に厳包の母方の姓である島を名乗っているため、3人とも同じ母から産まれたとする見方もある。
- ^ 相川、伊藤2004。p.201
- ^ 弟・厳包の母は島清興の娘・珠。
- ^ 正成とは利厳の禅師・海山珠和尚との道縁により、若年時からの知己であったという。
- ^ 利厳は「江戸の但馬(叔父・宗矩)とこと違い、諸役の御奉公は一切御免蒙り、替え馬一頭もひける身分ならでは、御仕官の儀は堅く御免蒙りとう存じます。」との条件を示している。
- ^ 「私は不幸にして任を辞めざるを得なかったが、このまま病死するのは不名誉なのでこの戦いで死んできます。」という意味。
- ^ 神田 2005, p. 131
- ^ 名が不明
- ^ 神田 2005, pp. 167-169
- ^ 25歳
- ^ a b 29歳
- ^ 島清興娘・珠を指すという。
- ^ 茂左(利方)、新六(厳包)。相川、伊藤2004。p.201
- ^ 父の姉妹の夫。
- ^ 詳細不明
- ^ 白林寺喝堂に示されている。「正伝新陰流」
- ^ 愛知県名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派の寺院。