柳 崇(りゅう すう、生没年不詳)は、北魏官僚政治家は僧生。本貫河東郡解県

経歴

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秀才に挙げられ、太尉主簿・尚書右外兵郎中を初任とした。河東郡と河北郡の塩池をめぐる境界争いを調停するため、孝文帝の命を受けて検断におもむいた。また荊州郢州の新領土の民心を安定させるために派遣された。帰還すると、太子洗馬・河東郡邑中正となった。中塁将軍・散騎侍郎に転じた。司空司馬となり、衛尉少卿を兼ね、また邑中正を兼ねた。河北郡太守として出向した。在官のまま死去した。享年は56。輔国将軍・岐州刺史の位を追贈された。は穆といった。

逸話

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柳崇が河北郡太守となったとき、郡民の張明の馬が盗まれる事件が起こって、十数人が疑われた。柳崇はおのおのと面談して雑談をしながら様子をうかがい、真犯人の呂穆ら2人を捕らえて、残りは釈放した。

子女

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  • 柳慶和(軽車将軍・給事中・河東郡邑中正)
  • 柳楷(字は孝則、中軍将軍、撫軍司馬)

伝記資料

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