松永章
日本のサッカー選手
松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ゴールへの嗅覚の鋭さから「ハイエナ」の異名で呼ばれたストライカーである。
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名前 | ||||||
愛称 | ハイエナ | |||||
カタカナ | マツナガ アキラ | |||||
ラテン文字 | MATSUNAGA Akira | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1948年8月8日(76歳) | |||||
出身地 | 静岡県 | |||||
身長 | 168cm | |||||
体重 | 60kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
1963-1966 | 藤枝東高校 | |||||
1967-1970 | 早稲田大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1982 | 日立製作所 | 176 | (82) | |||
通算 | 176 | (82) | ||||
代表歴 | ||||||
1973-1976 | 日本 | 10 | (2) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集1967年の藤枝東高校3年次にはキャプテンとして同校を戦後初となる選手権、高校総体、国体の3冠獲得に導き(なお、3年時の公式戦の記録は72戦70勝2分である)日本ユース代表に選出された。その後、早稲田大学を経て、1971年に日本サッカーリーグの日立製作所サッカー部に入部した。
日立では監督・高橋英辰の厳しい指導の下「走る日立」の異名で呼ばれたチームの中心選手として1972年の日本リーグ初制覇に貢献。また、得点ランキングにも常に顔を出し、釜本邦茂とは毎年激しい得点王争いを繰り広げ、2年連続で得点王(1972年、1973年)に輝いた。JSL通算82得点は釜本、碓井博行に次ぐ第3位。1974年第13節のトヨタ自動車工業サッカー部戦において、ダブルハットトリック(1試合6得点)を記録した。
1973年から1977年にかけて日本代表にも選ばれ1976年にはモントリオールオリンピック予選などに出場したが、同じポジション(純粋なセンターフォワード)に釜本邦茂がおり、また自身も肝心な時期に骨折に見舞われ、国際Aマッチは10試合出場の2得点であった。
引退後は母校の早稲田大学ア式蹴球部の監督を務め、1993年、1994年に全日本大学サッカー選手権大会、1996年に関東大学リーグ優勝に導いた。
2014年5月31日に開催された「サッカーレジェンドマッチ」に出場した[1]。
エピソード
編集所属クラブ
編集個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1971 | 日立 | 13 | JSL | 11 | 4 | - | |||||
1972 | JSL1部 | 14 | 12 | - | |||||||
1973 | 9 | 18 | 11 | ||||||||
1974 | 18 | 17 | - | ||||||||
1975 | 18 | 15 | - | ||||||||
1976 | 5 | 0 | |||||||||
1977 | 15 | 4 | |||||||||
1978 | 18 | 7 | |||||||||
1979 | 18 | 2 | 2 | 1 | 4 | 2 | 24 | 5 | |||
1980 | 6 | 17 | 4 | 2 | 0 | 4 | 2 | 23 | 6 | ||
1981 | 16 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 4 | |||
1982 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | |||
通算 | 日本 | JSL1部 | 176 | 82 | |||||||
総通算 | 176 | 82 |
その他
編集- JSL選抜チーム(1974年)1試合0得点
代表歴
編集出場大会など
編集試合数
編集- 国際Aマッチ 10試合 2得点(1973-1976)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1973 | 3 | 0 | 6 | 1 | 9 | 1 |
1974 | 0 | 0 | 7 | 1 | 7 | 1 |
1975 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
1976 | 7 | 2 | 2 | 0 | 9 | 2 |
通算 | 10 | 2 | 15 | 2 | 25 | 4 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1973年05月22日 | ソウル | 香港 | ●0-1 | 長沼健 | ワールドカップ予選 | |
2. | 1973年05月26日 | ソウル | イスラエル | ●0-1(延長) | ワールドカップ予選 | ||
3. | 1973年06月23日 | ソウル | 韓国 | ●0-2 | 日韓定期戦 | ||
4. | 1976年01月25日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ブルガリア | ●1-3 | 朝日国際サッカー大会 | |
5. | 1976年01月28日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | ブルガリア | △1-1 | 朝日国際サッカー大会 | |
6. | 1976年02月01日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ブルガリア | ●0-3 | 朝日国際サッカー大会 | |
7. | 1976年03月17日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | フィリピン | ○3-0 | オリンピック予選 | |
8. | 1976年03月27日 | ソウル | 韓国 | △2-2 | オリンピック予選 | ||
9. | 1976年03月31日 | ソウル | イスラエル | ●0-3 | オリンピック予選 | ||
10. | 1976年04月11日 | テルアビブ | イスラエル | ●1-4 | オリンピック予選 |
得点数
編集# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
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1 | 1976年1月28日 | 日本、大阪市 | ブルガリア | 1-1 | 引分 | 親善試合 |
2 | 1976年4月11日 | イスラエル、テルアビブ | イスラエル | 1-4 | 敗戦 | モントリオール五輪予選 |
指導歴
編集- 早稲田大学ア式蹴球部 監督
著書
編集- 松永章 -『最後に勝つサッカー ハイエナと呼ばれた得点王』(日貿出版社)1987
脚注
編集- ^ “レジェンドマッチ詳細”. 日本スポーツ振興センター. 2014年7月27日閲覧。
外部リンク
編集- 松永章 - National-Football-Teams.com
- 松永章 - FootballDatabase.eu
- 松永章 - Transfermarkt.comによる選手データ