松村秀逸
松村 秀逸(まつむら しゅういつ[1]、1900年(明治33年)3月1日[2][3] - 1962年(昭和37年)9月7日[2][3])は、日本の陸軍軍人、国会議員(参議院議員)。最終階級は陸軍少将。
経歴
編集熊本県出身[2][3][4]。松村又熊の息子として生まれる[2]。八代中学校(現熊本県立八代高等学校)、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業[2][3][5]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第12連隊付となる[2][5]。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業した[2][3][4]。
1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務となり、陸軍野戦砲兵学校教官、関東軍参謀部付を経て、1935年(昭和10年)8月、砲兵少佐に昇進し陸軍兵器本廠付(新聞班)に就任[2]。1938年(昭和13年)3月、砲兵中佐に進級し関東軍参謀(新聞班長)となる[2]。同年7月、陸軍省軍務局付(新聞班)に転じ、大本営陸軍報道部長に異動[2]。1940年(昭和15年)8月、砲兵大佐に昇進[2][4]。同年12月、内閣情報局第2部第1課長に就任し太平洋戦争を迎えた[2][4]。
1942年(昭和17年)4月、内閣情報局第2部長心得となり、軍務局付を経て、1943年(昭和18年)、大本営陸軍報道部長となる[2][4]。1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に進級[2][3][4]。内閣情報局第1部長を経て、1945年(昭和20年)7月、中国軍管区参謀長兼第59軍参謀長に発令され、在任時の同年8月6日、広島市(広島城内)で原爆に遭い、重傷を負った[2][3][4]。翌月、中国軍管区参謀長を退任し、同年12月、予備役に編入された[2]。
戦後、公職追放[1]。追放解除後、1956年(昭和31年)の第4回参議院議員通常選挙に自由民主党から全国区で出馬し、初当選[6]。国会議員としては内閣委員や社会労働委員を務め、法務委員長[6]にも就任する。
1962年(昭和37年)に第6回参議院議員通常選挙で再選[6]されるも、同年9月7日病気により死去。享年62。
栄典
編集- 外国勲章佩用允許
著書
編集- 『日本の進路』大日本雄弁会講談社、1939年。
- 『近代戦争史略』朝日新聞社、1944年。
- 『三宅坂 - 軍閥は如何にして生れたか』東光書房、1952年。
- 『大本営発表』日本週報社、1952年。
- 『宣戦から終戦まで - 軍の誤断と四年間の悪夢』日本週報社、1964年。
脚注
編集参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
編集- 竹槍事件
- 将官・佐官出身の国会議員の一覧
- 大佐古一郎 - 著書『広島 昭和二十年』の中で、被爆直後に松村が出した幻の「中国軍管区司令部発表」についての記述がある。
議会 | ||
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参議院法務委員長 1960年 - 1961年 |
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