松平頼安
松平 頼安(まつだいら よりやす、1856年2月15日(安政3年1月10日) - 1940年(昭和15年)2月7日)は、明治時代から昭和時代初期の華族。神職。従二位。
生涯
編集1856年(安政3年1月10日)、松平頼位と側室(佐々木氏の娘)との間に二男として生まれる。25歳上の兄・松平頼徳(第9代藩主)と、24歳上の姉・雪がいた。頼徳と雪は正室・松平絲(実父は水戸藩主・徳川宗翰の八男・松平保福)の子で、頼安と同母の姉妹や弟には珽、高、松平頼平、艶、鋭がいる。
1864年(元治元年)、水戸藩にて天狗党の乱が起こると、兄・頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められ、10月5日に切腹した。享年35。父・頼位も連座で拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。1868年(慶応4年2月)、新政府より宍戸藩の復旧を命ぜられ、頼位が再相続する。1869年(明治2年)、頼位の版籍奉還願いが受理される。
松平啓(実父は高松松平家一門の松平頼顕、高松藩主・松平頼聰の養女)を正室とする。のち小河原台子(小河原将雄の娘)を継室とする。台子との間に、長女・恒子(1884年生)、長男・ 頼敏(1898年生)、二女・照代(1925年生)を儲ける。頼敏は1926年に28歳で早世した。のち、徳川圀順の三男・圀秀(1916年生)を養子とする。長女・恒子は青木清太郎に嫁ぎ、二女・照代は染谷亨の養女となる。
1880年(明治13年)7月、頼安は、父・頼位より家督を譲られ、1884年(明治17年)7月8日、子爵に叙された。1887年(明治20年)12月26日に正五位。1892年(明治25年)に従四位。1903年(明治36年)に従三位。1912年(明治45年)に正三位。1922年(大正11年)に従二位を賜わった。その間の1898年(明治31年)には上野東照宮社司、1904年(明治37年)には芝大神宮社司を兼ねる。1905年(明治38年)には亀戸天神社社司も兼ねた[1]。
1934年(昭和9年)12月28日に隠居し、1935年(昭和10年)5月1日、養子の圀秀が子爵を襲爵した[2]。1940年(昭和15年)2月7日、東京府北多摩郡東村山町にて死亡。享年85。
人物
編集姪の平岡なつ(妹・高の娘)の孫・三島由紀夫は15歳の時、頼安を登場させる作文『神官』[3]を書いている。そこには、「上等な大島をきた老人がシラノ・ド・ベルジュラックはだしの大きな鼻をぶらさげて」と、頼安の容姿が表現されている。また、作家となってからの短編小説にも、頼安をモデルとする『好色』(1948年)[4]、『怪物』(1949年)[4]などを書いている。それらや、『松平頼安伝(創作ノート)』によると、好色でいじわるな人物のようである。「人と人との間をさいて人と人とをもますのが好き」、「剣をもつことはきらひ、戦争は何よりきらひ、平和愛好者、助平愛好者」、「大炊頭は正宗の銘刀で切腹。頼安が七円に屑屋に売り」[3]などと書かれている。
栄典
編集家族・親族
編集系譜
編集- 松平家系図
脚注
編集参考文献
編集- 『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 水戸支流松平氏(宍戸藩・御連枝) - Reichsarchiv ~世界帝王事典 [1]
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』広論社、1983年。
関連項目
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (宍戸)宍戸松平家初代 1884年 - 1934年 |
次代 松平圀秀 |