松平義生
松平 義生(まつだいら よしなり)は、明治時代初期の大名。美濃国高須藩第14代(最後)の藩主(藩知事)。
松平義生 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 安政2年5月29日(1855年7月12日) |
死没 | 大正9年(1920年)1月14日(64歳没) |
改名 | 小出小次郎(幼名)→英周(初名)→松平義生 |
主君 | 明治天皇→大正天皇 |
藩 | 美濃国高須藩主→高須藩知事 |
氏族 | 小出氏→高須松平家 |
父母 |
父:小出英教、母:小出英発の娘・秀御 養父:松平義勇 |
兄弟 | 小出英尚、義生 |
妻 |
先妻:徳川慶勝三女・道姫 後妻:徳川慶勝養女・安子 |
子 | 義為、竹佐義典、義守、公子、義忠、義利 |
生涯
編集丹波国園部藩主・小出英教の次男として誕生した。初名は小出英周(こいで ふさちか)。
明治2年(1869年)6月26日、高須藩13代藩主・松平義勇の養子となる(年齢は義勇が4歳下)。同年7月27日、義勇の隠居により家督を相続する。それに伴い、高須藩知事に就任する。明治3年(1870年)12月24日、高須藩と尾張藩の合併に伴い、藩知事は免職となった。
明治8年(1875年)11月、徳川慶勝の養女・安子と再婚する。
明治10年(1877年)7月、三等中警部心得となる。同年11月、一等少警部となる。明治11年(1878年)4月、権中警部となる。明治12年(1879年)4月、退職する。
明治14年(1881年)5月、宮中祗候となる。同年9月、退職する。
明治35年(1902年)、駒野城跡を城山村(現・岐阜県海津市)に小学校用地として寄付した。
大正9年(1920年)に64歳で死去した。
家族
編集脚注
編集日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (高須)松平家初代 1884年 - 1920年 |
次代 松平義為 |