東洋放送
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東洋放送(TBC、トンヤンバンソン、동양방송)は、1964年から1980年まで存在していた大韓民国の民放ラジオ局、および民放テレビ局である。
元・東洋放送本社(現・KBS別館) | |
種類 | 株式会社 |
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略称 | TBC |
本社所在地 |
韓国 ソウル特別市永登浦区汝矣島洞46 (ソウル本社) 釜山広域市中区中央洞4街19 (釜山支局) |
設立 | 1964年5月9日 |
業種 | 情報・通信業 |
事業内容 | テレビ・ラジオ放送事業 |
主要株主 | サムスングループ |
特記事項:全斗煥政権による言論統廃合に伴い1980年11月30日に閉局。事業は韓国放送公社に引き継がれた。 |
東洋放送 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 동양방송 |
漢字: | 東洋放送 |
発音: | トンヤンバンソン |
日本語読み: | とうようほうそう |
英語表記: | Tonyang Broadcasting Company (TBC) |
歴史
編集東洋放送のルーツは、のちに韓国の大手財閥となったサムスン(三星)の出資により、1964年5月9日に開局した「ラジオソウル」(略称:RSB)[1]にさかのぼる。ソウルでは文化放送、東亜放送に続く3局目の民放AMラジオ局であった。周波数は中波1380kc/sであったが、後に2度の世界的中波再編で640kHz⇒639kHzと変遷。
同年の12月7日、「東洋テレビジョン」(当時の略称は“Dong-Yang Television”からDTV)がソウル第7チャンネルで、韓国初のテレビ局だった旧大韓放送を引き継いだソウル中央テレビジョン(現・KBS第1テレビジョン)に次ぐ放送を開始した(テレビでは文化放送よりも先だった)。この5日後には釜山でもテレビジョン放送を開始。
翌1965年6月25日、ソウルFM放送株式会社(呼出符号:HLCD-FM)が、FMラジオ放送を89.1MHzで開始した[2]。同じ年にサムスン系列の新聞である中央日報が創刊されたことにともない、同年8月16日、ラジオソウルは「中央ラジオ」(略称:JBS)に、東洋テレビジョン旧社は「中央テレビ」(略称:JBS TV)に、それぞれ名称が統一された。
しかし、当時KBSを運営していた政府から「民間放送に“中央”という名称は不適切ではないか」という意見がだされ、1966年8月15日、名称を「東洋ラジオ」(略称:TBC)、「東洋テレビ」(略称:TBC TV)にふたたび変えることとなった。同年中、この両社が経営統合の上、前述のソウルFMを吸収合併し、「東洋放送」(略称:TBC)となった。また1974年には、当時の韓国放送界のトレンドとなっていた新聞・放送の経営統合という流れを受け、中央日報と合併して「株式会社中央日報・東洋放送」になった。
当初は韓国を代表する民放として、文化放送とならぶ人気を謳歌していたが、韓国の放送界における視聴率の競争を始めさせたという批判もある。[要検証 ]
- テレビジョン放送はソウル市民から「TBC」または「七番(チルボン)」の愛称で親しまれた。文化放送が、アメリカ製アニメーションを中心に放送したのに対し、東洋放送は東洋テレビ旧社の時代から日本テレビ放送網(日テレ)と提携関係にあった[3]影響から日本製アニメーションの放送が多かったといわれる。
1960年代末に日本で放送されたアニメ『黄金バット』『妖怪人間ベム』は東洋放送の子会社、東洋動画がアニメーション制作を担当した[4]。また1972年には日テレのオーディション番組『スター誕生!』が初の海外特集として同局で公開録画をおこなったこともある。他にも海外のアーティストもゲストとして登場することもあった音楽バラエティ『ショー・ショー・ショー』は人気番組だった。
言論統廃合
編集1980年、クーデターによって執権した全斗煥政権によって、マスコミ統制のための「言論統廃合」が断行され、東洋放送も同年11月30日(日曜日)に閉局された。テレビ・ラジオ局は、公営の韓国放送公社(KBS)がその事業を引き継ぎ、KBS第2テレビジョン、KBS第3ラジオ(当時。現在の第2ラジオ“Happy FM”)、KBS第2FMとなった。その最後の放送日である1980年11月30日の夜、東洋放送テレビではお別れの特別番組が放映され、ラジオでは夜11時[5]の「夜を忘れたあなたに」で、司会者のファン・イニョンが涙声の告別番組が送出された。これは政権による強制的な統廃合であるが、建前としては自主的な統廃合であったため、政府からは「悲壮感や涙ながらの内容にならないように」と注文されたという[6]。当時の有名司会者ホ・チャムは、トーク番組「膝打ち導師」の2008年3月12日放送分で「東洋放送の告別放送で多くの歌手が泣いて、涙の海になってしまった。特にイ・ウナはこの放送で泣いたことで、しばらく放送局への出演が停止された」と語った[7]。この当時の詳細なコメントについてはこちらを参照されたい。
言論統廃合後、JTBC開局まで
編集言論統廃合により失職した従業員のほとんどはKBSへ移り、放送事業に継続して携わったものの、一部は野に下り、“TBCi.co.kr”というサイトを立ち上げるなどTBC復活を目指し活動を続けていた[8]。そんな中で2010年、李明博政権により新聞社による放送事業への参入が許容され、東洋放送を有していた中央日報は、日本でいうところのスカパー!に相当する衛星放送やケーブルテレビ局向けに配信する総合編成テレビ局への参入を申し込んだ。同年12月31日に東亜日報、朝鮮日報、毎日経済新聞と共に許可され、[9][10] 2011年12月1日、JTBC(中央東洋放送)として再び開局した。JTBCは“復活 TBC、誕生 JTBC”を発足時のキャッチコピーに掲げているが、財閥系列の新聞社による放送掌握の試みではないかとする批判もある。
ネットワーク
編集地方ネットワーク形成では文化放送に遅れをとった。いずれも廃局時のデータ。
直営
編集- 東洋テレビジョン
- ソウル局/HLKC-TV KO-7ch
- 釜山局/HLKE-TV KO-7ch
- 東洋ラジオ
- ソウル局/HLKC 639kHz
- 東洋FM
- ソウル局/HLKC-FM 89.1MHz
系列局
編集いずれもラジオ局。AM2社の周波数はKBS新第3ラジオ(愛の声放送)の中継局に、韓国FMはKBS大邱局の音楽FM放送に、それぞれ転換。
脚注・出典
編集- ^ 東亜放送から韓国放送公社に統合されたラジオソウル(のちのソウル放送)とは別。
- ^ ただし韓国でFMにおいて本格的に音楽放送が開始されたのは1970年代に入ってからで、現在でも中波ラジオ放送を補完する位置付けの「標準FM放送」と日本におけるFMラジオ放送と同じ「音楽FM放送」とが混在している点に注意する必要がある。
- ^ こうした事情もあって、日テレはソウル放送(SBS)が1990年代に開局した際、いち早く提携関係を確立した。
- ^ 『黄金バット』では、オープニングテーマで『制作協力 東洋放送』とクレジットされていた。
- ^ 本来は23:00-翌日1:00の生放送であるが、東洋放送の放送局免許は11月30日24:00=12月1日0:00で失効となり、それ以後はKBSに引き継ぐことから、その日の番組も24:00までで打ち切りとなっていた。
- ^ ““신군부, 방송 장악 위해 강제 폐방”(新軍部、放送掌握のため強制廃放)”. 中央日報. (2010年1月8日) 2012年2月5日閲覧。
- ^ “허참 “TBC 고별방송 눈물바다, 이은하 너무 울어 방송출연 금지”(ホ・チャム“TBC告別放送涙の海にあふれ、イ・ウナしばらくの間放送出演禁止”)”. NEWSEN. (2008年3月13日)
- ^ TBCiサイトは、JTBC開局で「サイト開設の目的であるTBC復活を果たした」として2012年1月に終了した。
- ^ 『報道専門放送チャンネル事業者に聯合ニュース選定』 - 聯合ニュース 2010年12月31日
- ^ 『韓国の4新聞社がケーブルテレビ進出 「共倒れ」懸念も』 - 朝日新聞 2010年12月31日