村井貞敏
日本の海軍軍人
村井 貞敏(むらい さだとし、1900年(明治33年)8月27日 - 1944年(昭和19年)5月22日)は、日本の海軍軍人。
村井 貞敏 むらい さだとし | |
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生誕 |
1900年8月27日 日本・山形県鶴岡市 |
死没 |
1944年5月22日 南シナ海東沙島南方海域 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1922年 - 1944年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
指揮 |
山形県鶴岡市で誕生、荘内中学校出身[1]。1922年(大正11年)6月、海軍兵学校50期を卒業[1]、任官。1937年(昭和12年)12月1日駐満海軍部副官着任後、1938年(昭和13年)駐満海軍部が解散した後も、1940年(昭和15年)11/15帰任までの期間、満州国中枢における海軍諜報機関として日華事変の情報収集に当たった。1944年5月22日、砲艦橋立の艦長として南シナ海東沙島南方海域で損傷輸送船の救助中に、米潜水艦の雷撃を受け沈没、戦死した。
軍歴
編集- 1922年(大正11年)6/1海軍兵学校50期卒業>少尉候補生>出雲乗組
- 1923年(大正12年)2/12霧島乗組 9/20少尉
- 1924年(大正13年)4/10川内艤装員 7/4海軍砲術学校普通科 9/1長良乗組 12/10海軍水雷学校普通科
- 1925年(大正14年)4/20榛名乗組 12/1中尉>第5号駆逐艦乗組
- 1926年(大正15年)12/1第5号駆逐艦砲術長兼分隊長
- 1927年(昭和2年)12/1大尉>呉海兵団分隊長 12/17結婚
- 1928年(昭和3年)12/10運用術練習艦航海学生
- 1929年(昭和4年)11/30宇治航海長兼分隊長
- 1930年(昭和5年)12/1鳴戸航海長
- 1932年(昭和7年)12/1神威航海長
- 1934年(昭和9年)1/11兼神威分隊長 10/22青葉航海長兼分隊長
- 1935年(昭和10年)10/21龍驤航海長兼分隊長 11/15少佐
- 1936年(昭和11年)12/1那智航海長兼分隊長
- 1937年(昭和12年)12/1駐満海軍部副官兼参謀
- 1938年(昭和13年)11/15満州国在勤帝国大使館付武官輔佐官 大本営附属海軍諜報機関
- 1940年(昭和15年)11/15横須賀海軍人事部
- 1941年(昭和16年)10/15中佐>球磨副長
- 1943年(昭和18年)1/9第2南遣艦隊司令部 1/15球磨副長 9/14橋立艦長
- 1944年(昭和19年)5/22橋立沈没時に戦死、大佐
栄典
編集- 位階
- 1923年(大正12年)12月10日 - 正八位[3]
- 1926年(大正15年)1月15日 - 従七位[4]
- 1927年(昭和2年)12月28日 - 正七位[5]
- 1923年(昭和8年)2月15日 - 従六位[6]
- 1928年(昭和13年)3月15日 - 正六位[7]
- 勲章
- 1931年(昭和6年)11月7日 - 勲六等瑞宝章[8]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲五等双光旭日章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[9]
- 1938年(昭和13年)12月14日 - 勲四等瑞宝章[10]
- 外国勲章佩用允許
家族・親族
編集出典
編集- ^ a b 海軍兵学校出身者 第50期 - 海軍兵学校(個人サイト)
- ^ 奉職履歴
- ^ 『官報』第3398号「叙任及辞令」1923年12月19日。
- ^ 『官報』第4069号「叙任及辞令」1926年3月20日。
- ^ 『官報』第362号「叙任及辞令」1928年3月15日。
- ^ 『官報』第1842号「叙任及辞令」1933年2月22日。
- ^ 『官報』第3364号「叙任及辞令」1938年3月24日。
- ^ 『官報』第1460号「叙任及辞令」1931年11月10日。
- ^ 『官報』第2454号・付録「叙任及辞令二」p1、三段目 1935年3月11日。
- ^ 『官報』第3593号「叙任及辞令」1938年12月24日。
- ^ 『官報』第3282号・付録「辞令二」p3、四段目 1937年12月9日。
- ^ 『官報』第5060号 付録「辞令二」p1、二段目 1943年11月24日。