李成名
生涯
編集南京戸部員外郎をつとめて清廉で知られた李応時の孫にあたる。1604年(万暦32年)、成名は進士に及第し、中書舎人に任じられた。1612年(万暦40年)、吏科給事中に抜擢された。官吏任用の不公平を上疏し、吏部尚書の趙煥を批判した。1613年(万暦41年)、熊廷弼が荊養喬に弾劾されると、成名は陳伯友らとともに調査と審問にあたった。また群臣たちとともに満朝薦の釈放を求める上疏をおこなった。吏部侍郎方従哲を弾劾したが、万暦帝に聞き入れられなかった。東林党への攻撃が激しくなると、成名は病と称して帰郷した。
家にいること5年、山東副使として起用された。天啓初年、湖広参政に転じ、入朝して太僕寺少卿となった。1624年(天啓4年)春、右僉都御史に抜擢され、南贛巡撫をつとめた。成名は趙南星の推挙により任用されていたことから、魏忠賢に憎まれ、天啓帝の諱を犯したとして弾劾され、官爵を剥奪された。巡撫の任にあること8カ月ほどだったが、現地の士民たちが生祠を建ててかれを祀った。1628年(崇禎元年)、成名は北京に召し出されて戸部右侍郎に任じられ、1629年(崇禎2年)、戸部左侍郎となり、辺境の食料輸送を担当した。11月、兵部左侍郎に転じた。1630年(崇禎3年)、罷免され、家で死去した。
参考文献
編集- 『明史』巻242 列伝第130