李 崇(り すう、生没年不詳)は、北燕から北魏にかけての官僚。本貫は范陽郡。
前燕の司徒左長史李績の子として生まれた。北燕の吏部尚書・石城郡太守となった。432年(延和元年)、北魏の太武帝が龍城に進攻してくると、李崇は十数郡を率いて北魏に降伏した。太武帝はかれを礼遇して、「李公」と呼んだ。平西将軍・幽州刺史に任じられ、固安侯の爵位を受けた。81歳で死去した。諡は襄侯といった。