朱啓鈐
朱 啓鈐(しゅ けいけん)は、清末民初の政治家。北京政府、交通系の政治家として知られる。字は桂莘、桂辛。号は蠖園。祖籍は貴州省紫江県。徐世昌の義子。
朱啓鈐 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: |
1872年11月22日 (清同治11年10月22日) |
死去: |
1964年2月26日 中華人民共和国北京市 |
出身地: | 清河南省汝寧府信陽州 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 朱啟鈐 |
簡体字: | 朱启钤 |
拼音: | Zhū Qǐqián |
ラテン字: | Chu Ch'i-ch'ien |
和名表記: | しゅ けいけん |
発音転記: | ジュー チーチエン |
事績
編集挙人となり、1903年(光緒29年)3月、京師訳学館監督に就任する。1905年(光緒31年)10月、北京外城巡警総庁庁丞となる。(1907年(光緒33年)に東三省蒙務局督弁に任じられた。まもなく日本へ赴き、北海道で開墾事業を視察している。1909年(宣統元年)、津浦路北段総弁に就任する。
1912年(民国元年)7月、北京政府の陸徴祥内閣、趙秉鈞内閣において交通総長に就任した。また、趙秉鈞内閣崩壊後の翌年7月、一時は国務総理を代理した。政治的には、梁士詒が率いる交通系に属している。9月、熊希齢内閣で内務総長となり、京都市政督弁等も兼任した。1915年(民国4年)、袁世凱の皇帝即位画策を主導し、9月、大典籌備処処長に任じられている。
しかし、袁が翌年6月に死去すると、朱啓鈐は帝制推進の罪を問われて指名手配を受けることとなり、天津に逃げ込んだ。1918年(民国7年)に赦免され、同年8月、安福国会の参議院副議長に選出された。その翌年2月の南北和平交渉で北京政府側の総代表をつとめ、上海で南方政府代表の唐紹儀らと交渉した。しかし失敗に終わり、再び天津へ隠棲した。以後は実業界で活動し、山東中興煤鉱公司総経理、中国営造学社社長などをつとめている。
晩年は上海に寓居し、中華人民共和国建国後も大陸に留まった。中央文史館館員や中国人民政治協商会議全国委員もつとめている。
参考文献
編集- 劉紹唐主編『民国人物小伝 第1冊』伝記文学出版社、1975年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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